右から岡田隆彦、飯島耕一、吉岡実、大岡信
飯島は昭和三十一年(一九五六年)に、大岡信、東野芳明、江原順らとシュルレアリスム研究会を組織した。処女詩集上梓から三年後のことである。あくまで私的な会だが、シュルレアリスム研究会の発足には重要な意味がある。シュルレアリスムは戦前すでに西脇順三郎によって紹介され、瀧口修造らによって日本文学への更なる移入が試みられていた。しかし軍国主義台頭による外国文化排斥で、その受容は不十分なまま終わってしまった。
飯島らの試みは二度目の受容運動だが、先見性を別にすれば、戦前よりも遙かに正確かつ徹底したものだった。戦後の詩人で、何らかの形で飯島らのシュルレアリスム研究の恩恵を受けていない者は皆無だと言える。また狭義の「現代詩」は戦後詩的な思想や意志表現、つまり言語の意味伝達機能をできるだけ排した純粋言語芸術の試みだと定義できる。その可能性を示唆したのもシュルレアリスムである。飯島は作品主題的には戦後詩の詩人だが、シュルレアリスムの紹介・実践者という面では現代詩の創始者の一人である。
シュルレアリスムは第一次大戦後のヨーロッパで生まれた芸術運動である。凄惨な戦争でかつてないほど荒廃したヨーロッパでまず始まったのは、いっそのこと何もかも破壊し尽くそうとする虚無的ダダイズム運動だった。しかしいつまでも虚無に留まるわけにはいかない。ダダの精神を受け継ぎながらも、シュルレアリスムは虚無からの再生を目指した。芸術家が生み出す超現実(シュル・レアル)の側から現実(レアル)を変えようとしたのである。それは超現実による悲惨な現実の革命運動だった。
この革命運動という性格が、シュルレアリスムの創始者であるポール・エリュアールやルイ・アラゴンが、後に現実政治的なコミュニズム運動に参加した理由である。また運動の実質的主導者であるアンドレ・ブルトンが、数次の「シュルレアリスム宣言」でその内容を微妙に変えていった理由になっている。永久革命運動であるシュルレアリスムの方法論は、現実社会に合わせて変容してゆくものとして捉えられていたのである。ブルトンはレーニンと並ぶロシア革命の主導者であり、スターリンに暗殺されたトロッキーに接近している。
多くの人はシュルレアリスムを、新たな表現を生み出すための純粋芸術的な魔法の手法と捉えがちである。しかし本来の目的は芸術中心の社会運動だった。だがそのような側面は戦前にはあまり重視されなかった。西脇や瀧口は純粋芸術派であり、シュルレアリスムの政治性に無関心だった。確かにコミュニストの中にもシュルレアリストはいたが、彼らは西脇らとは逆にシュルレアリスムの芸術性に鈍感だった。瀧口は危険思想の持ち主として特高に検挙されたが、取調室で刑事と噛み合わない珍問答を繰り広げたことはよく知られている。
飯島はシュルレアリスムが内包する政治性と芸術性を的確に捉えていた。シュルレアリスムは飯島の世代に至って初めて正確に紹介・移入されたのである。むしろ飯島はシュルレアリスムの歴史に忠実に、まずダダイストのように第二次世界大戦終戦を虚無と捉え、シュルレアリストのように虚無から希望を紡ぎ出そうとしたと言える。飯島のシュルレアリスムへの興味は一九五〇年代から今日までおおむね一貫している。理論と実践面を検証すれば、日本で最も正統なシュルレアリストは飯島だと言って良い。
星を砕け
砕けるものの音を久しく聞かない
腐って行くもののかすかな落差感覚だけだ
わたしがわるい時代というのは
そのためだ
星を砕け
髪を砕け
管を砕け
数式を砕け
その音を集積して
一枚の紙の上に配列せよ
(『夜明け一時間前の五つの詩他』表題作「3星の命名法」Ⅲ 昭和四十二年[一九六七年])
『夜明け一時間前の五つの詩他』は、意識的にシュルレアリスムのエクリチュール・オートマチスムの手法を使って書かれた作品である。エクリチュール・オートマチスムは飯島の言葉で言えば「可能な限り意識や反省、熟慮、周辺の環境からの影響を排して、思考の純粋な書き取りをする」(『現代詩が若かった頃』平成六年[一九九四年])ための、シュルレアリスム独自の方法である。
引用の詩篇を読めば明らかなように、飯島は苛立っている。高度経済成長の波に乗って、終戦時の白紙状態を忘れてゆく日本社会に苛立ちを感じているのである。平和と安定の時代には何かが大きく砕けることがない。なし崩し的に「腐って行く」だけだ。飯島は「砕け」と命じる。白紙状態に戻れと命じるのである。
飯島は「シュルレアリスムというのはまったく奇妙な思想だし思想運動だった。そして妙にぼくには魅力のある対現実態度(〝対現実態度〟に傍点)として映った。シュルレアリスムの「白紙状態(ターブルラース)への意志」はぼくの気に入った。一切をつねにやりなおしたいという考え方だ。ここには絶えざる失敗への救いが、実存主義とは別のありようである」(『シュルレアリスム詩論序説』昭和三十五年[一九六〇年])と書いている。常に白紙状態に立ち戻り、そこからより良き社会・思想・生を探究するのが社会批判に立脚した飯島のシュルレアリスムである。
ことばを 私有せよ
非打算的に ことば
をつかうことをせよ
巨大な 監視者 に
は 理解 しがた い
ことばを 私有 せよ
巨大な怪物の 時の
巨大な監視者の 寒い細胞
を破壊す る ことば
を めいめい 私有
せよ ついには
あの殺戮者 の
機能を 麻痺させ よ。
(「所有者と被所有者の時のエスキス」4 『私有制にかんするエスキス』昭和四十五年[一九七〇年])
『私有制にかんするエスキス』で飯島は、思想的には一つの結論に達している。一九六〇年代から七〇年代は政治の季節だった。日本国内は安保闘争で大きく揺れ、世界中にベトナム反戦の嵐が吹き荒れた。『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』で表現されていたように、飯島は激変する社会に敏感に反応しながらも、自分の言葉が特定の思想や行動に飲み込まれるのを必死にこらえている。芸術は思想や政治信条の喧伝の道具ではないからである。では詩は、芸術の言葉は、なんのために存在しているのか。
飯島は「監視者」=権力者が決して理解できぬほど深く言葉を「私有」し、それにより「殺戮者」ともなり得る権力を「麻痺」させることが、芸術の、詩の言葉の目的なのだと結論づけている。それは人間を管理し命令するための道具から言葉を解き放つことである。言葉を単なる意味伝達の道具としては使わず、極私的であるがゆえに誰にも奪えない方法で、意味と命令体系である権力の言葉を、内側から揺さぶり無化しようとするのである。
もちろんそれは、直接的な異議申し立てや抵抗運動と比較すれば恐ろしく迂遠な方法である。しかし権力が本気で抑圧を始めるとき、飯島の方法は最後の砦である。二次大戦中の翼賛作家を非難するのは簡単だが、あの状況で権力に抗うのは非常に難しい。少年の日に軍国主義を刷り込まれた飯島にとって、どのような状況においても本質的に反権力である言葉の在り方を確認することは、ほとんどその実存に関わる重大事だったと言って良い。
ただ言葉の私有とは、言葉を特定個人のエゴで包み込むことではない。むしろ言葉を極限まで私有することで、権力の言葉とは逆に、人々の無意識を揺り動かす非私的な言葉に到達することである。しかしそれは大変困難だ。『私有制にかんするエスキス』もまた、頭に浮かんだ思考をできるだけ生のまま記述するエクリチュール・オートマチスムの手法で書かれているが、表題作は「きみのものがある/きみのものはない/水にくぐると他人の妻の/脚も きみの/妻の脚も見分けがつかかない」という詩行で始まっている。飯島の思考は私有と非私有の間を激しく揺れ動いている。
飯島は処女作からずっと「僕」「俺」という一人称で詩を書いてきた。しかし『夜明け一時間前の五つの詩他』の頃から、新たに「きみ」という三人称が加わった。「きみのいる地点はどこか/きみとは誰か?/この Who is you? という問いを/砕けちるガラス玉の音のうちに把握せよ。」(「見えるもの」Ⅴ 『私有制にかんするエスキス』)という形で、自己と他者に呼びかける書き方を始めたのである。この書き方で飯島は、自己の私性を相対化しようと試みている。非私的な言葉を希求するのなら、私の自我意識にこだわり続けることはできないからである。
廃墟を経験した戦後詩人として、飯島は私性を最も信頼できる拠り所として出発した。しかし飯島は現代詩の詩人でもある。シュルレアリスムは無意識を重視することで新たな思想や技法を見出した。無意識を言葉や絵にすることで、新たな認識地平を切り拓いたのである。権力とは異なる芸術のパブリックな言葉の力を信じるなら、私性の限界をどこかで脱却しなければならない。戦後詩的な自我意識を基盤としながらもそこからの超克の方法を探るという困難な道行きが、飯島文学のアポリアになってゆくのである。
一人の男が死ぬということは
その男の内部の光が死ぬ
というとだ。
生きるということは きみの内部に
きみのスペインが
刻々とその姿を変えながら 生きる
ということだ。
オレンジとオリーヴの群落のある
岩原が ひろがり出す。
きみの内部のスペインが消え
きみが自分だけになったとき、
きみは球体に閉じ込められたようになり、
病みおとろえてしまったのに。
(『ゴヤのファースト・ネームは』表題作 昭和四十九年[一九七四年])
昭和四十六年(一九七一年)から四十七年(七二年)の約一年間、飯島はいわゆる鬱病で自宅療養を余儀なくされた。『ゴヤのファースト・ネームは』は病から回復した飯島が出版した最初の詩集である。表題作の冒頭に「何にも興味をもたなかったきみが/ある日/ゴヤのファーストネームが知りたくて/隣の部屋まで駈けていた。」とあるように、ゴヤのファーストネームを知りたいという欲求が、鬱病からの回復のきっけかになったのである。
フランシスコ・デ・ゴヤは幻想的な作品で知られる十九世紀初頭のスペインの宮廷画家で、生涯鬱病に悩まされた。また飯島は昭和四十五年(一九七〇年)に國學院大学の在外研究員としてパリに滞在し、その際、高校時代の恩師でジャン・パウル研究家の古見日嘉とスペインに小旅行した。この旅行の思い出が『ゴヤのファースト・ネームは』の骨子になっている。なお古見は飯島の闘病中に急逝した。引用にある「一人の男」とは古見のことである。
飯島の作風は『ゴヤのファースト・ネームは』で大きく変わった。鬱病と飯島文学の変化がどう関係しているのかは、厳密には誰にもわからないだろう。ただ引用に「きみが自分だけになったとき、/きみは球体に閉じ込められたようになり、/病みおとろえてしまった」とあるように、飯島が鬱を、自我意識の過剰・飽和の病だと捉えていたのは確かである。鬱病になる直前、自我意識に内向することで私性を超えようとする飯島の探求は、限界に近づいていたと言って良い。
図式的に言えば、飯島の詩業は戦後詩と現代詩的詩法(思想)に引き裂かれている。飯島は鮎川信夫や田村隆一のように、戦後詩的な自我意識の絶対化の道を突き進むことはできなかった。しかしパンジャマン・ペレに代表される幻視的シュルレアリストのように、ほとんど無邪気なまでに無意識の領域に没入することで、私性を抜け出すこともできなかった。
ただ鬱による自我意識の活動停止という、生者にとっての死に近づいた時、飯島は自分の中に生命力の根源とでもいうべき「内部の光」があることを見出した。どんなに鬱で苦しんでいる時でも、その光の中では、現在・過去を問わず現実が「刻々とその姿を変えながら 生き」ていた。それが死者と生者の違いだった。
飯島はこの「光」を発見することで、戦後詩的自我意識の絶対化でも、シュルレアリスム的無意識による私性の脱却・超克でもない第三の道があることに気づいた。表現の核はあくまで自我意識だが、限りなく小さく縮退した自我意識の鏡に現実を映し出すことで、世界を認識把握する方法を見出したのである。
シュルレアリスムの方法を試した時がそうだったように、『ゴヤのファースト・ネームは』以降、飯島はこの方法をあきれるほど無邪気に実践し始めた。現実世界に向けて、ほとんど無防備に自己を解放し始めたのである。飯島は鬱病の回復期に宮古島に旅行した体験を、詩集『宮古』(昭和五十四年[一九七九年])にまとめた。
巻頭の表題作で飯島は、「戦後が終わると島が見える」、「戦中と戦後意識のタガに/爪に/しっかりと頭を掴まれてしまったわたしは/宮古によってようやくそれからの離脱ができるかもしれないのだ」と希望に満ちた言葉を書いている。飯島にとって宮古は本土の戦後的精神から最もかけ離れた日本の土地だった。その古代的文化風土に触れることで、戦後の閉塞した精神構造から抜け出せると感じたのである。
『宮古』以降、飯島の詩には現実の地名・人名が頻出するようになる。抽象的表現はほとんどなくなり、現実の出来事が赤裸々に描かれる。その変化は飯島が、それまでいかに内面的自我意識のフィルターを通して言葉を紡ぎ出していたのかをよく示している。飯島は「自分のことばかり考えていると/空虚になる/他のもの/木 空 水 つち/何でもいい 自分より大きな存在について考えると/その空虚は/少しずつ みたされてくるだろう。」(「空虚」『バルセロナ』昭和五十年[一九七五年])と書いている。
小さな自我意識で大きな世界を描く手法の援用によって、飯島作品は一気に表現の自在さを増した。それは飯島が自らの詩法に、シュルレアリスムを経由して西脇順三郎的方法を取り入れたことを示している。西脇は処女詩集『Ambarvalia(アムバルワリア)』でヨーロッパ文化の根源であるギリシャ的精神を表現し、日本へのシュルレアリスムの最初の本格的紹介者でありながら、戦後に刊行した『旅人かへらず』で、ほとんど俳句的な表現を取り入れた詩人である。(続く)
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■