飯島耕一 昭和五年(一九三〇年)、岡山県岡山市で生まれる。父・隆は英文学者で旧制第六高等学校教師、母・八重は岡山第一高女の音楽教師だった。旧制六高文科卒業後、東京大学仏文科に入学。卒業後、いくつかの職に就いた後、國學院大學教授を経て明治大学教授を長く勤めた。昭和三十一年(一九五六年)、大岡信、江原順、東野芳明とシュルレアリスム研究会を発足させ、戦後のシュルレアリスム研究を本格化させた。鋭敏な時代批評精神を持つ戦後詩人であり、シュルレアリスティックな詩法を多用する現代詩人でもある。
文学史における主義(イズム)や流派(エコール)は時に曖昧なものである。後になってあまり交流のなかった作家たちの仕事が一つの流派(エコール)にまとめられたり、ある作家の仕事が当人の意図とは別に、後世に出現した流派(エコール)の出発点になることもある。しかしそのような曖昧さが生じるのはおおむね十九世紀までである。ジャーナリズムが爆発的に発達した二十世紀に入ると、作家たちは意識的に新たな流派(エコール)を標榜し始めた。マスメディアを通じて文学の新しい試みを喧伝することで先行世代との違いを明確にし、自らの現代性をより的確に表現しようとしたのである。それは二十世紀半ばに出現した戦後詩や現代詩も同様である。
日本の詩史では第二次世界大戦以前の詩を「近代詩」、以降の詩を「現代詩」と区分けする。また現代詩では終戦直後に現れた一群の詩を「戦後詩」と呼んでいる。ただこのうち近代詩は後から付けられた名称である。戦前の詩人たちは新体詩派、象徴主義派、民衆詩派、超現実主義派などと自称したが、現代から一歩後退した印象を与える「近代」の名称は当然だが使用しなかった。つまり近代詩は戦後の詩人たちが、自分たちの詩には戦前とは明らかに異なる〝現代性〟があるという自負の元に生み出した名称である。またそこにはほんのわずかな例外を除いて、戦中に雪崩を打って戦争協力詩を書いた戦前の詩人たちへの激しい批判がこめられていた。戦前の詩は戦後の詩人たちによって、現代以前の近代と位置づけられたのである。
もちろん詳細に検討すれば、主義(イズム)や流派(エコール)への対応は詩人それぞれである。近代詩と現代詩の言語技法面での相違がそれほど明確ではないのは言うまでもない。またあらゆる主義(イズム)や流派(エコール)はいずれその影響力を失う。若さを新しさだと考えがちな現行世代が、先行世代の仕事をやみくもに否定したがるのも事実である。実際、戦後詩の主だったイデオローグたちが死去してしまった今では、誰もが気軽に戦後詩や現代詩の終焉を口にし始めている。しかしその本質的位相での超克は簡単ではない。何が終わり何が持続しているのかを明らかにしなければ、芸術の本質は捉えられないのである。
飯島耕一は戦後詩だけでなく現代詩をも代表する詩人である。鮎川信夫ら戦後詩を代表する詩人たちの多くが、いわば昭和二十年(一九四五年)八月十五日の終戦時にその思想を確立し、それと同時に詩の表現を固着化させてしまったのに対して、飯島は戦後詩の思想と表現を超克するための現代詩を追い求めた。また飯島の探求は驚くほど急進的(ラディカル)だった。少し極端なことを言えば、わたしたちは飯島の作品を読むことで、終戦直後から現代に至る自由詩の思想と表現の変遷のあらましを知ることができる。
鳥たちが帰って来た。
地の黒い割れ目をついばんだ。
見慣れない屋根の上を
上ったり下ったりした。
それは途方に暮れているように見えた。
空は石を食ったように頭をかかえている。
物思いにふけっている。
もう流れ出すこともなかったので、
血は空に
他人のようにめぐっている。
(『他人の空』表題作全篇 昭和二十八年[一九五三年])
処女作『他人の空』は、放心に近い飯島の虚脱感を表現した詩集である。表題作には地上に「帰って来た」が「途方に暮れている」「鳥」と、「石を食ったように頭をかかえている」「空」が対比的に描かれている。また空は鳥たちのための空間だが、そこには「もう流れ出すこともな」い「血」が「他人のようにめぐっている」。作品の表現は比喩的である。なぜ虚脱感が生じたのか具体的な理由は書かれていない。しかしこの作品は当時の飯島の心境を正確に言語化している。
昭和一桁生まれは純粋培養的に軍国主義教育を受けた世代であり、飯島もまた熱狂的皇国少年だった。昭和二十年に十五歳になっていた飯島は、八月二十日に航空士官学校に入学予定だった。特攻隊となり空で散る覚悟を決めていたのである。しかし八月十五日の終戦で飯島少年の決意は無に帰した。地上に戻ってきたが途方に暮れている鳥と、もう流れ出すことのない血が他人のもののように巡る空の描写は、死に場所を奪われ、かといって元の場所にも戻れない当時の飯島の心象風景である。ただこの詩を現実描写を避けた曖昧な表現だと言うことはできない。現実世界の変化が余りに激しく厳しいとき、人はそれを喩でしか表現できないものである。
鮎川信夫や田村隆一は「戦後詩」の第一世代だが、それぞれ大正九年(一九二〇年)と十二年(二三年)生まれである。彼らは飯島より十歳、七歳年長に過ぎない。しかしこの差は昭和十年代には生死を分ける絶対的なものだった。鮎川は陸軍歩兵として招集され、スマトラ島でマラリヤを病んで終戦直前に日本に送還された。田村は海軍予備学生として舞鶴で終戦を迎えた。鮎川と田村の三歳の差が外地と内地の出征の違いとなっているわけだ。また彼らは日本が狂信的軍国主義に突入する前の比較的自由な社会を知っており、モダニズムやシュルレアリスムを始めとする外国文学の洗礼を受けていた。彼らは戦前にすでに、政府のプロバカンダに惑わされない自我意識を育んでいたのである。
戦後、鮎川は「たとえば霧や/あらゆる階段の跫音のなかから、/遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。/これがすべての始まりである。」(『死んだ男』)と書き、田村は「一篇の詩を生むためには、/われわれはいとしいものを殺さなければならない/これは死者を甦らせるただひとつの道であり、/われわれはその道を行かなければならない」(『四千の日と夜』)と書いた。鮎川と田村は戦後詩の陰と陽だった。鮎川が戦死者たちの「遺言執行人」としてどんな思想・党派にも属さない孤独な個人主義を貫いたのに対して、田村はそこから「死者を甦らせる」ような、すなわち悲惨な現実を超克し得るような向日的世界の探求に向かった。鮎川は虚無的個人主義の側から戦後社会に警鐘を鳴らし、田村は苛烈な作品至上主義的姿勢で戦後社会を言語化したのである。二人は同人誌「荒地」に属したが、次第に鮎川が思想家、田村が詩人の役割を担ってゆくことになった。
飯島は「荒地」派に続く戦後の第二世代である。ただ鮎川らと異なり、沈黙と判断停止が飯島の出発点だった。また飯島が抱いた虚脱感は第二世代に共通していた。彼らの多くは皇国史観以外の思想規範を知らなかった。確かに戦後すぐにアメリカ式民主主義が雪崩れ込んできた。マルキシズムや実存主義思想に飛びつく者も大勢いた。しかしそれを受け入れることは、無防備に皇国史観を刷り込まれた過ちを繰り返すことに似ていた。かといって、第二世代が簡単に独自の思想を打ち立てられるはずもなかった。
彼ら戦後の第二世代に比べれば、戦中派の思想は、少なくとも一九五〇年代までは明確で揺らぎないものだった。彼らは実際の従軍体験に基づく激しい否定精神によって、終戦時のほんのわずかな政治・思想的空白期に強固な自我意識を確立したからである。そのため第二世代はもちろん、飯島より年下の第三、第四世代の詩人たちの多くが、他ならぬ鮎川らの「荒地」派を一つの思想規範とするようになった。自由詩の世界ばかりでなく、俳句・短歌や小説の世界でも似たような出来事が起こっている。
しかし「荒地」派の詩の継承は困難だった。後続世代の熱い眼差しにも関わらず、「荒地」派の詩人たちの自我意識は戦後の平和の中で揺さぶられ、徐々にその独立性を浸食されていった。付け焼き刃のマルキシズムや実存主義が、他の多くの外来思想と同様、日本では一時の流行思想で終わってしまうことも必然的な帰結だった。
このような状況の中で、飯島は終戦時の虚脱感に倫理的なまでの真摯さでこだわった。原理的に捉えれば、それは一つの絶対的白紙還元だった。古い価値規範は崩壊したが借り物ではない新たな思想は見えてこない。戦中派の虚無的で傲慢でもある個人主義は生死の境を見た世代特有のものであり、詩の技法は模倣できても表現の核となる自我意識は継承不可能だった。拠るべき規範のない白紙状態が第二世代の出発点だったのである。それは戦後に新たな生を始めた人間全員にとっての原風景であり、本質的には現在もなお続いているのである。
わが母音は
ぼくらがすばらしく生きる力を妨げる
あの首くくるような悔恨よりも強力だ。
それは光を追う透明さを持つから
ぼくらは何度も見失いがちになる。
澄んだ母音を見つけることが
ぼくらの日課の色どりであればよい。
それは恐ろしい現実にたち向かう
ぼくらの 幸福すぎる
権利なのだ。
(『わが母音』表題作部分 昭和三十年[一九五五年])
飯島は第二詩集『わが母音』で、最初に言葉を発する初源状態を想起させる作品を書いている。「わが母音」とは日本語の平仮名の「あ」音、真言密教が世界の初源の音とする「阿字」になぞらえることができるだろう。飯島にとって、自らの明確な意志で言葉を発することが、虚脱感から脱出するための手始めの試みだった。「わが母音は/(中略)恐ろしい現実にたち向かう/ぼくらの 幸福すぎる/権利なのだ」とあるように、飯島は決してペシミスティックな詩人ではない。彼本来の資質は向日的で陽気なものである。
『わが母音』以降、飯島は解き放たれたように作品を量産してゆく。飯島の試みが、いわば失われた世界との関係回復に向かうのは必然である。飯島は「僕らは進歩の手と曇らぬ理性の手と/どう結びつけるか?/平和のための詩を何と書くか。」(「青空が遠くまで」)と問いかけている。飯島は日本が悲惨な戦争に突入していった理由を考え、愚行を二度と繰り返さないための方法を模索している。
以後、飯島の詩は過去・現在を問わぬ日本社会への批判と、言語による世界との新たな関係性の構築へと向かってゆく。新思想の探求と言っても良いが、詩の思想は哲学のように論理で示されるわけではない。作家主体が操る言語と世界との関係性、すなわち作品によって表現されるものである。批判精神に基づく作品の量産が飯島文学の基盤になってゆくのである。
おれはさきほどアメリカ政府を責める
火の一篇を書こうと思った。
今おれのことばは じつに小さな秤皿にのる
わずかなこと、
ベトナムの人々を殺すな!
という揺れ動くそれだけのことだ
だがおれはその詩を書かなかった。
おれがおれの自己意識をかけた血の一篇の詩を書いても
パリサイの人々にはとどくまい
と思ったからだ。
(『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』表題作3 昭和四十六年[一九七一年])
『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』は全七章から成る長詩で、飯島の社会詩を代表する作品である。ベトナム戦争を批判した詩だが、単純な反戦詩にはなっていない。飯島はアメリカの指導者たちを偽善的立法学者(「パリサイの人々」)と非難している。しかし「ベトナムの人々を殺すな!」と叫び出すことすらためらっている。「自己意識をかけた血の一篇の詩」を書いても、それは無力だからである。その代わり飯島は「昔 ブレイクという詩人もいて/メアリとスザンとエミリの歌を/うたった。」と、ブレイクを思い出すことから作品を始めている。
ブレイクは十九世紀初頭のイギリスの宗教詩人で、善悪や聖俗の諸相をまざまざと幻視して詩や絵画に描いた。飯島は百五十年以上も前に、芸術によって現実の悲惨と残酷を乗り越えようとした詩人がいたことを想起することで、かろうじて自己の無力を耐えている。現実世界の問題を、紋切り型の社会思想や直接行動で処理する誘惑を排して、あくまで芸術独自の方法で解消することを希求しているのである。
ただ作品が「昔ブレイクのいたことも、/ときどきは憶い出そう。/(中略)/ときにまだのこる冬の冷たい風に吹かれよう。//吹かれつつどこかの一点へと浮かんで行くのだ。」で終わっていることからもわかるように、飯島は冷厳な現実に対峙し得る独自の芸術的方法をつかんでいない。「冷たい風」の中に立ち尽くしながら、漠然と「どこかの一点へと浮かんで行く」のを待っている。しかしこの「どこかの一点」が、まだ誰も試みたことのない芸術を意味していると飯島は信じていた。
飯島作品は現実社会批判をその表現の原動力としている。しかし一方で飯島は、終戦時に体験した白紙還元に忠実に、どんな既存思想にも頼らず、ほとんど虚無的なゼロ地点から世界との新たな関係を直接構築したいと指向している。この批判精神と、無から有を生み出すような観念的指向は、そのままの形では同居・両立し得ない。猥雑な現実と、無垢な観念を繋ぐ方法が必要となるからである。飯島が「荒地」派的戦後詩の後継者でありながら、一方でシュルレアリスムに強く惹き付けられていった理由がここにある。(続く)
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■