中沢けいは、思い起こせば『海を感じる時』という作品で、ほとんど大学入学とともにデビューして話題になった。群像新人賞がまだ話題になり得た時代のことだ。そのとき確か選者の吉行淳之介が、若いのでそれと知らず、タブーとされる部分の女の生理を描いている、といったことを言っていたように記憶している。
小説書くのにタブーなんかあるんかいな、しかも人類の半分は女なのに、そこんとこ全部タブーって、膨大な暗黒部分でないかい、と思った。ようするに当時はまだ、タブーが存在していると感じられるような幸せな時代だったということだ。
高度情報化社会となった今日、我々はあらゆる情報をいろんな立場を想定しつつ、眺められるようになった。その結果、タブーがなくなったのではなくて、ある者にとって当たり前の明白な事柄が、別の者にとっては禁忌となり得る、ということがわかりやすくなった。
たとえば高度資本主義社会において、経営トップしか知り得ない機密に、そこに一生勤めるつもりの下層の労働者が触れることはタブーだったかもしれない。けれどもそれはライバル会社にとってはタブーどころか価値ある情報であって、ネットで日常的に転職情報が湯水のごとく流れ込んでくれば、労働者にとってもタブーは利用価値のある手土産となり得ることに気づく。会社への忠誠心や仲間意識も相対化され、誰にとって都合よくタブーとされていたのかも見えてくる。
『楽隊のうさぎ』は、自閉的な中学生がブラスバンド部に入り、友人たちと全国大会を目指す、というフツーに中学受験に出そうな、フツーの物語だ。開けっぴろげ、筒抜けとなったこんな時代じゃなくたって、タブーになりそうなところはない。
しかし視点を変えれば、タブーを打ち破り続けている物語なのだとも言える。主人公は引っ込み思案、自閉気味だ。そうでなくても子供は多かれ少なかれ、外の世界が怖い。外部と触れ合い、社会的なものを目指す、というのは内なるタブーを破り続けることである。つまりはビルディングス・ロマン(成長物語)とは、そういうものだ。
『海を感じる時』もまた、思えば高校生のフツーのビルディングス・ロマンだったものを、たまたま女の子だったものだから、社会的なタブーに触れたと「買いかぶられた」ような気もする。逆に『楽隊のうさぎ』の主人公の少年が、どれだけ一生懸命に自らの内なるタブーを破ろうとし続けたところで、すでに成長してしまった我々からすると、フツーの成長を一歩ずつ遂げているように見える、ということか。その両方を理解できるのは、昔、高校生であり、今は母親である作者に違いあるまい。
ただ、この音楽を扱っている物語の文章が、あまり音楽的でないことが少し気になった。マンガの『のだめカンタービレ』のようなリズミカルなわくわく感がないとすると、なぜ音楽でなくてはならないのか、とも考える。文章に対し、安易に歌うことを禁じる、というストイック感は純文学的なるもの、もしくは自閉症気味な主人公の心象かもしれない。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■