動物写真家、岩合光昭のカラー写真をふんだんに交えたエッセイ集だ。いわゆる動物ものは、とりわけ子供を対象としたものは、動物をメタファーとして人間を描いているものや、あるいは生物学といった科学の一環として捉えているものなどが多い。結局は人としての解釈もしくは抽象化が行われているのだ。
本書を読むと、とりたてて事細かな自然の描写もないのに、アフリカの空気感がリアルな手触りで伝わってくる。それは必ずしも写真のせいではない。むしろ、これらの写真と釣り合うだけの強度と明るさを持った言葉をこそ読むべきだ。それは人の「動物」に対する先入観を廃して、目の前にある「生きもの」のできるだけありのままを捉えようとするところからしか生じないものだ。
カメラ、すなわちプレーンな目線で捉えられるそれはたとえば、いわゆるハイエナのような「ハイエナ」ではない。ライオンと小競り合いをしたり、妙に可愛い坐り方をしていたりする「生きもの」だ。
そのライオンも、食べもしないのに他の動物を殺すなど、わからないところがあるが、キリンはもっとわからないという。とにかくぼんやりで置いてけぼりをくって、辺りを見回したり、あわてて追いかけたり、だいじょうぶなのかと思うというのも、私たちには思いも寄らない。絵本で、あるいは動物園で見かける「キリン」は、「キリン」という意匠に過ぎないのでは、と思えてくる。
で、その興味深いキリンなのだが、親を見失ったかのように見えて、心配する著者に、四歳になる娘が「そのために首が長いんだよ」と言ったという。ところどころに出てくる娘が、これもひとつの「生きもの」っぽくて、とてもいい。「生きもの」だから、「生きもののおきて」が生まれながらにわかっているみたいだ。
娘は、出会い頭に遭遇した「イボイノシシとはお友達になりたくない」と言う。イボイノシシの方もそうだったらしく、この互いのすれ違いというか、接点のなさもとてもいい。「動物となかよくなる」、「触れ合う」ばかりが能じゃない。逃げ出すことで理解する、ということもあると思う。
イボイノシシと娘とは、遭遇したときに「目の高さ」が同じだったろうと推察されるが、それこそが最も重要なポイントではないか。キリンについても、クレーン車を持っていって、その目の高さでTV 番組を作ってみたい、と著者は書いている。「キリンの目の高さで見たら、もしかすると、キリンのことがもっとよくわかるかもしれない。」
高さだけでなく、目線が変わると何もかも見え方が変わってくる、ということはある。さて、バッファローが傷ついた仲間の血をぺろぺろ舐めていたのは、果たして癒してやっていたのか、あるいは著者が疑うように「血がおいしい」と思っていたのか。結局はその場に放置され、ライオンの餌食となったバッファローの目に、仲間がどのように映っていたのか。人間の社会も一皮剥けば、同じかもしれないが。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■