1981年に没した教育者のエッセイである。大筋では子供の側に立ち、人には無限の可能性がある、という論旨だ。自分の都合で先を決めつけたがる教師らに苦言を呈するというのは、今も昔も、読者の子供たちは共感するだろう。
児童書もそうだが、教育関連本というのは比較的時代遅れになりにくく、結果としてロングセラーとなることがある。トレンドというのはそもそも変化のなくなった大人たちが作り出すもので、常に変化し続ける子供らの向かうべき方向は逆に、いつの時代も決まっている。そこで壁になるものも、生じる反発も、だいたい同じ性質のものだ。
実際、何ごとも決めつけは危険だし、そんなにはっきりわかっているなら、むしろ苦労はない。子供には可能性があるかもしれないと思うから、あれこれ試さないわけにはいかない羽目になる。可能性なんかないように言うのはせいぜい担任の教師ぐらいで、気に入らなければ無視すればよいのだが、可能性があるように言う塾や予備校の方には耳を傾けざるを得ない。
可能性を奪う圧力が存在した時代はもしかすると、少しずつ遠ざかりつつあるのかもしれない。現在の苦悩は、可能性を試させてもらえないことより、わずかな可能性を肥大化して見せつけられ、いつまでたっても諦めきれず、お金と時間が限りなく出てゆくことだ。生涯教育というのは、悟りのない、可能性を捨てきっていない趣味ということか。優雅さの代わりに、微かな希望があるという。
そうして「上」を目指すのをやめ、たとえば就職したとして、そこでの職業に即した訓練、勉強で眠っていた力が発揮される。そんなことも無論、本書には書かれて読者を励ましている。受験勉強真っただ中であれば励まされるというか、逃げ道にもなるだろう。いや、情報過多の現在、子供も保護者も、可能性を温存しつつ正面突破を避けるような逃げ道をうまく探し出すことに血道を上げていると言ってもいい。
現実のデータが示す実態は、思い込みとは違っていることが多くて、それを捉えて世を渡っていくのが情報化時代のインテリ、ということかもしれない。夢に向かって勝手にイメージを膨らませ、一心不乱に努力するなんて「情弱」(= 情報弱者)のすることだ、と。実態を知れば、乱立する歯科医院の歯医者や、多忙で死にそうな救急の勤務医より、放射線技師や看護師の方が実入りがよかったり、たいていの小説家が若い編集者の顔色を窺っていたりするのだから。
世の中で教育について求められているコメントは、だから意見でも思想でもなくて、実例、データなのだ。しかしそれも本当のところ、今も昔も変わらないのかもしれない。データとは、斎藤のいう「経験によって知る真実」がいわば凝縮されたものだ。
頭の上を米軍の戦闘機が飛んでも「日本は勝っているから、一機や二機は余裕で見過ごしている」という大本営発表を信じていた自分たちに、字の読めない父親が「そんなばかなことがあるものか」と言い放ったという斎藤のエピソードは、今も昔も、またデータを信じるにせよ信じないにせよ、いつも思い出したいものだ。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■