御本茶碗 銘 鶴山(かくさん)房 口径15.3×高さ8.4 高台径5.4センチ 江戸時代初期(17世紀中期から18世紀初期) 著者蔵
写真は江戸時代初期に対馬藩が経営していた朝鮮の和館内(釜山にあったので『釜山窯』と呼ばれる)で焼かれた抹茶碗である。恥ずかしいのだが、かなり気に入っているので〝鶴山房〟という銘を付けた。なんの変哲もない抹茶碗に見えるだろうが、実は作為だらけである。ただそれをほとんど意識させない見事な仕上がりだ。以前この連載で『作為を感じさせない作為ある焼物が最高である』と書いた。〝僕にとっては〟という限定付きだが、茶碗では今のところその理想に一番近い作品である。またこの茶碗は、茶道で使われる抹茶碗について、改めて考えるきっかけを与えてくれた作品でもある。
言うまでもないことだが、正式なお茶道で使われるのは陶器(土物)の抹茶碗である。伊万里などの磁器を使うのはお遊びの茶席のみということである。ただ〝茶碗は陶器〟と定義すれば、古い抹茶碗の制作年代には自ずから下限があることになる。中国では明時代後期にはほとんどの窯が磁器窯に移行してしまう。朝鮮でもその頃から磁器ばかり作るようになった。もちろん日本でも江戸時代初期に磁器生産が始まったが、茶道の流行と陶器好きの民族性を反映して茶碗を含む陶器が作られ続けた。しかし陶製の抹茶碗の様式は江戸時代初期でほぼ出尽くしてしまう。長く太平の世を謳歌した江戸時代から現在に至るまで、日本人は江戸初期までに作られた茶碗を写し続けてきたのである。
お茶の世界では中国製の茶碗を『唐物』、朝鮮製は『高麗茶碗』と呼ぶ。もちろん茶道を大成した利休の桃山時代から茶道具の国産化(日本製は『和物』と呼ぶ)が盛んになったが、それも古田織部の死(慶長20年[1615年])で一つの区切りを迎えている。戦国から桃山時代にかけて、茶室は茶頭(さどう)――つまり聖(ひじり)であり乞食(こつじき)でもある禅宗僧侶を主人(亭主)とする権力者たちの密議の場でもあった。政治に密着していたのである。天下太平の基礎が築かれると徳川家はそのような要素を茶道から排除し始めた。それにより茶道の革新性は失われ急速な様式化が進んだ。骨董好きは茶碗など市場にいくらでもあると思っているが、ほとんどが発掘品である。つまり全盛期(本歌)の幻を買っているのである。実際には江戸時代初期で唐物、高麗茶碗、和物茶碗全ての進化(変化)は止まっている。以後は各時代の優れた陶工が、江戸初期までに作られた古作茶碗の様式を研究することでそれぞれの個性を見出している。
対馬藩が釜山和館内に窯を築いた理由はそれなりに複雑である。釜山和館は対朝鮮貿易の拠点だった。資源の乏しい対馬藩は中世以降、朝鮮貿易で利益を上げていた。対馬にとって朝鮮は温厚な関係を築きたい国だったのである。ただ秀吉の文禄慶長の役(文禄元年[1592年]から慶長3年[1598年])によって対馬藩は窮地に陥った。朝鮮の地理に詳しいことを買われて出兵の先陣に立たされたのである。対馬藩は秀吉死後に徳川家に付き、朝鮮との国交回復交渉に当たっては朝鮮国王国書を改竄してまで国交回復を急いでいる。釜山窯は利益を上げておらず、それどころかかなりの赤字だったことが知られている。それでも釜山窯を維持し続けた理由は、江戸初期には強大だった徳川将軍を始めとする貴顕の茶道具へのニーズに応えることで、朝鮮貿易における藩の重要性を誇示したかったからだと思われる。
釜山窯で作られた茶碗は従来通り『高麗茶碗』と呼ばれることもあるし、室町から桃山時代の古作高麗茶碗と区別するために『御本(ごほん)茶碗』と呼ばれることもある。御本とはお手本を元に作ったという意味である。対馬藩は釜山窯で、朝鮮の材料で朝鮮人陶工を使って作品を焼いたが、その際、日本の注文主から託された紙(切り型という)や土で作った見本を持参していたのである。つまり御本茶碗は朝鮮製だが日本からの注文品である。莫大な金と労力をかけてでも朝鮮に焼き物を発注しなければならなかったのは、前述のように既製品ではもはや高麗茶碗の優品を入手できなくなっていたからである。また和物の生産が盛んになっていたが、茶道界では相変わらず唐物や高麗茶碗が珍重されていた。日本人が舶来輸入ブランド物に弱いのは今も昔も変わらない。
【参考図版01】御所丸茶碗 高さ7.3×口径10.1~11.8 高台径6.7センチ 桃山時代末から江戸初期頃 三井文庫蔵
【参考図版02】織部茶碗 高さ×口径 高台径センチ 桃山時代末から江戸初期頃
現在の研究では釜山窯は、江戸初期の寛永16年(1639年)から享保3年(1718年)までの約80年間も運営し続けられたことがわかっている。ただいきなり朝鮮に窯を作って焼物を作り始めるはずもない。記録はないが、釜山窯の開窯以前に朝鮮に注文して作られた茶碗が残っている。御所丸茶碗がその代表である。日本で作られた織部茶碗と比べてみれば一目瞭然だが、この作品は織部様式である。また古田織部が朝鮮に茶碗を発注していた傍証が残っている。写真掲載の作品ではないが、織部の同時代人で〝綺麗さび〟の大成者である小堀遠州が、箱裏に『古田高麗』と書き付けた御所丸茶碗が現存する。奈良の漆問屋・松屋に残る茶会の様子を記した『松屋会記』には、織部が慶長6年(1601年)の茶会で『今高ライ茶碗』(最近焼かれた高麗茶碗)を用いたという記述もある。織部は釜山窯開窯よりも40年ほど前に、朝鮮に茶碗を発注して作らせていた可能性がある。仲介したのは恐らく対馬藩だろう。
また御所丸茶碗が初期の朝鮮注文茶碗であることは、その作行きからも読み取れる。御所丸は純粋な土から作った陶器ではない。骨董用語で半陶半磁、あるいは堅手と呼ぶが、磁器に移行途中の作品なのである。文禄慶長の役によって国土が荒廃した朝鮮では、窯を再興するにあたって以前よりもさらに磁器窯への移行が進んだ。天下の大茶人だった織部が磁器質の抹茶碗を注文するはずがない。彼は周到に模型を作って朝鮮に発注したが、材料までは指定できなかったのではなかろうか。対馬藩が和館内に窯を作り、役人を派遣して念入りに焼物制作を指導させたのは、使用する材料を含めて作品の質を管理するためだったのだろうと推測される。御本茶碗には堅手も多いが、朝鮮ではもう使わなくなっていた陶土を用いた陶器も数多く存在する。
約80年にも渡って稼働し続けたのだから、日本には現在でも膨大な量の御本が残されている。茶碗だけでなく皿、水注、香合などその種類は多岐に渡る。最近では対馬藩主・宗家に伝わる古文書の研究によって釜山窯の研究も徐々に進んでいる。しかし圧倒的に文書資料が不足しており、その全貌が隅々まで解明されることはないだろう。作られた当時の焼物は新造の工芸品である。出荷してしまえば仕事は終わりである。いつまでも帳簿類を残しておく必要などない。世界中、どこの窯場に行っても似たようなものだが、帳簿や制作資料が残っている方が奇蹟的なのである。つまり唐津や志野・織部窯などと同様に、御本も作品からその実態を探っていくほかない。そしてある程度系統立って作品を見ていけば、御本には明らかな特徴を指摘することができる。
【参考図版03】狂言袴茶碗 銘 ひき木 高さ10.6~11.2×口径8.4~8.8 高台径5.4センチ 李朝時代(15世紀)
【参考図版04】御本雲鶴茶碗 高さ9.5×口径9.0 高台径6.4センチ 江戸時代初期(17世紀中期から18世紀初期)
【参考図版05】三島茶碗 高さ7.6~8.3×口径14.2~15.0 高台径6.3センチ 李朝時代(16世紀)
【参考図版06】御本三島茶碗 高さ8.9×口径14.9 高台径6.2センチ 江戸時代初期(17世紀中期から18世紀初期)
【参考図版07】金海茶碗 高さ10.3×口径11.5~13.0 高台径5.4センチ 江戸時代初期(17世紀中期から18世紀初期) 北村美術家蔵
釜山窯の御本には、唐物から高麗茶碗、和物へと変化し続けてきた茶碗の歴史の、最後の光といった趣がある。鎌倉時代初期の建保2年(1214年)に栄西が著した『喫茶養生記』を日本の茶事の嚆矢とすれば、釜山窯が閉窯する享保3年(1718年)までは約五百年である。釜山窯の御本には、この五百年間の茶碗の歴史が濃縮されて流れている。参考図版03から06をご覧いただければ明らかなように、釜山窯ではもう入手できなくなった過去の優品を盛んに写している。それだけでなく今までになかった新たな意匠の作陶も行っている。参考図版07の『金海茶碗』はその一例である。この手の茶碗は胴部に猫が爪で引っ掻いたような跡があることから『猫搔き手』とも呼ばれる。釜山窯で初めて現れた様式である。そして釜山窯が閉窯すると『猫搔き手』を含む新たな御本様式が、古作の唐物や高麗茶碗と同様に日本各地で盛んに写されるようになるのである。
日本の陶磁史を概観すると、釜山窯が閉窯する江戸初期以降は磁器窯の伊万里の時代に入る。新たな試みは伊万里によって行われ、陶器は飽くことなくそれまでの意匠を模倣し続けた。ただ同じ写し物といっても、江戸中期以降の和物作品は釜山窯に比べて質が劣る。御本は朝鮮人陶工の手によって作られたが、彼らは対馬藩から派遣された陶工頭の指導を受けていた。伝世の御本茶碗には『玄悦』、『茂三』、『弥平太』と呼び習わされてきた作品がある。現在ではそれが、陶工頭の船橋玄悦、中庭茂三、松村弥平太の名前であることがわかっている。彼らはお茶の精神を知り尽くした優秀な茶人だった。朝鮮人陶工の技術を活用しながら日本人好みの作品を作り出し、さらに新たな意匠まで生み出している。太平の世になり茶道は様式化し始めていたが、お茶人の茶道精神理解は驚くべき水準にまで達していたのである。
鶴山房 見込部分と口まわりの焼き切れとくっつき
御本茶碗の高水準の作陶技術(茶道精神)は、伝世の作品を詳細に眺めれば簡単に理解することができる。ここでは僕が持っている御本茶碗を読解してみたい。この茶碗は『猫搔き手』と同様、金海茶碗を写したものである。金海手は元々は朝鮮の慶尚南道金海地方で作られた焼き物を指す。この地方の土は鉄分が多く、焼くと釉薬の下で鉄分が発色して紅い斑点が現れる。鶴山房にも紅く発色している部分があるが、見込(茶碗の底の部分)に拡がる紅色は作為の結果である。指で触ると雑巾のようなもので釉薬を拭い取っていて、それにより紅色が出やすいように細工してある。また茶碗の形が微妙に歪んでいるが、これは轆轤で挽いた後に手で押し潰したのである。茶碗の口の部分には焼き切れ(焼成中に土が割れてしまうこと)とくっつき(ほかの茶碗などとくっついてしまった跡)があるが、これも人工的なものだ。胴回りから高台にかけてはさらに手の込んだ細工が仕掛けてある。
鶴山房 胴部分と高台の指跡
鶴山房 胴下部の篦彫りと高台の削り跡
【参考図版08】白釉御所丸茶碗 高台部分
胴には指を押し当てた凹みがある。高台には釉薬を掛けるために器体を掴み上げた時の指跡が残っている。これらは通常、数百にのぼる陶器を量産する際に、陶工が意識しないで付けてしまう作業跡である。しかし鶴山房のそれは間違いなく意図的なものだ。胴の下部分には御本茶碗に特徴的な、太い篦彫り(篦で器体を渦巻き状に削り取った跡)が施されている。また高台にも細工がある。高台の角が篦でそぎ落とされているのである。はっきりとした多面体にはなっていないが、高台の角をそぎ落とす技法は初期の朝鮮への注文品である御所丸茶碗にも見られる。鶴山房作成を指導した陶工頭は、御所丸茶碗の技法も援用したようだ。
江戸初期には本阿弥光悦(永禄元年[1558年]から寛永14年[1637年])などの優れた陶工が現れている。光悦は利休より30年ほど後の人だが、彼が作った作為だらけでかつ作為を感じさせない楽茶碗を見れば、その茶道理解の高さがうかがい知れる。また光悦の本業は刀剣の鑑定士であり、彼を有名にした書や陶芸は余技に過ぎなかった。光悦のような貴人が一から土をこねて茶碗を作ったとは考えにくいので、恐らく下働きの陶工を指導して作陶させ、仕上げにほんのちょっとだけ手を加えたのではあるまいか。優れた美意識を持つ人が少し手を加えるだけで、焼き物の姿はガラリと変わる。近代では魯山人がそのような陶芸家だった。釜山窯の陶工頭たちも、恐らく光悦と同じ方法と精神で御本を作っていたのだろうと思う。
なお脆くて儚い物に美を見出すお茶の精神、あるいは侘び寂びの心とは、極論すれば混沌の中に秩序を見出す日本的精神のことではないかと思う。『日本書紀』は『古(いにしえ)に天地(あめつち)未(いま)だ剖(わか)れず、陰陽(めを)分(わか)れざりしとき、渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如(ごと)くして、溟涬(ほのか)にして牙(きざし)を含(ふく)めり』という記述で始まる。世界はその始まりにおいて天地の区別も陰陽も存在しない渾沌の状態にあったが、その中には微かだが秩序の兆しが存在していたという意味である。
この渾沌の中に秩序(の萌芽)を見る心性は、日本文化のいたるところに見出すことができる。茶道はその代表的なものの一つである。茶道では軸や茶碗や水注、釜、香合など様々なお道具を取り合わせる。ルールはあるようでない。たとえ決まり事を破っていても、全体として調和が取れていればそれでいいのである。この渾沌の中に秩序を見出す精神は茶道具の一つ一つにも適用することができる。抹茶碗はその典型だろう。人間が加える作為は一歩間違えると見るも無惨で嫌味な作品を作り出してしまう。しかし作為を乗り越えるほどの作為に達すれば、自然の秩序に勝るとも劣らない調和を作り出すことができる。お茶を愛する多くの人が茶碗には小宇宙があると言うのはその意味で正しいと思う。
鶴山裕司
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■