詩人の言葉というので、一番印象に残ってるのは「昨日あったことを今日書くな」とかいうものだ。荒川洋治という詩人だったと思う。もっと哲学的っつか、詩的な名文句だってあるはずなんだけど、実践的だし。
よく考えたら、一般の雑誌や新聞の記事ってのは、昨日あったこと、いやできれば「今日あったことを今日書く」ぐらいの勢いが必要だ。わざわざ遅らせて書けってのは、詩とか文学作品に特有の注意なんだろか。
現代詩手帖5月号は「特集Ⅰ 大震災のあと、私たちは何を表現するのか」、「特集Ⅱ 吉本隆明―没後一年」とかで、思いっきり遅れている感じだが、これもわざとっていうことなんだろう。遅れて書く、書かせるってのは、つまりは距離感を作り出すわけだ。距離を置くってのは、相対化するってことで、認識が進むというか、熟成されるのを待ってると。そういうことだろう。
そんで「大震災のあと、私たちは何を表現するのか」がそろそろわかる時期にきた、ということだと思っていいのか。しかしまず、りょんさんなんかは「大震災のまえ、何を表現していたのか」がわからない。それまで何かの確信を持って、絶好調で表現していて、そのとき地震が起きて確信が崩壊し、さてそのあと「何を表現するのか」。それだったら、状況を「戦後」とかになぞらえてもいいと思うけど。でも、絶好調で表現してた八紘一宇とか神国日本とかへの距離感や反省に相当するもんは、別に見当たらない。
吉本隆明氏についても、生きているうちに相対化できなかったというのもよくわからないし、それができなかった詩人さんたちが、ご本人が亡くなって一年で相対化できるのか疑問だ。ぽっきり一年が持ち出されるのは、一周忌という宗教的慣習を踏襲したもので、あんまり文学的なものではないと思う。
じゃ、没後二年とか五年とかならいいかっていうと、吉本隆明氏とともに何十年も生きてきた現代詩手帖のライターさんたちが変わってないかぎりは、常識的にいって特に期待できないんじゃないですか。
ほんで同じ号には「リレー連載 詩論の現在」というコーナーもあって、その第28回は「西脇と萩原あるいは一六八の摘み草 - フローラの詩学」(杉本徹)で、西脇というのが西脇順三郎、萩原というのが萩原朔太郎だというのくらい、りょんさんにもわかる。で、この人たちがかなり前の詩人で、「現在」の人たちでない、というのも。
そんで、そのエラい詩人さんたちから、「『虚無』とか『永遠』」とかが「ありふれた時空間に浸透」していることを見い出したことが「近代詩と現代詩の境界」になっているというのがわかって、りょんさんもそれは納得。でも、これも「現在」の話じゃないよね。
そうか「詩論の現在」は、「現在についての詩論」じゃなくて、「詩論は現在、こんなものが書かれてますよ」ってコーナーなのか。けど、それって現代詩手帖に今載ってる詩論って、ようするに全部「現在、こんなものが書かれてますよ」じゃないのか?? 内容以前に、コーナーの意図がよくわからん???
りょん
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■