どんなものでもいいから「詩的」と思えるものを題材として発表しなさい、というのが、私の授業でのずっと変わらない課題だ。これをしないと単位はあげない。「詩」と思えるもの、とは言わないのは「これ、詩ですか」という質問者がボロボロ来て、対応が大変になるからだ。そもそも詩とは何か、ということ自体が大テーマだし。
それでもいいと言っているので、ポップスの歌詞を持ってくる学生もいる。というか、それが主流派だ。おかげで知らなかったミュージシャンを、それもじっくり歌詞を精読することになって、だいぶわかった気になった。もちろん 〝 創作者〟 として彼らを捉えるのだから、本人が作詞をしていることが前提だ。
Mr.Children ぐらいの人気グループを、まるで知らなかったわけではない。CM やドラマの主題歌にたくさん使われているから、思っている以上に耳にしているのだろう。そのわりに印象には残ってなかったが、ボーカルの桜井という人が脳の病気になったときの騒ぎは記憶している。歌ったり、作詞作曲したり、バンを運転したりとほとんど一人で背負って立っていて、若いのにストレスが尋常じゃないのかも。
そういう立派な、まっとうそうな人柄を漏れ聞くのだが、毎年のように学生たちが持ってきていた 〝 作品〟 を読むと、なんとなくポストモダンっぽい人格(ってことは、人格やや破綻?)の構造もまた、透けてきて面白い。
抒情詩とすれば、ポイントは押さえられている。それも社会的なことを抒情的に綴るときのテクニックで、視点を卑近で微視的なところから地球規模の巨視的なところまで自在に上下させるという、高度なものだ。
「ディカプリオの出世作なら録画しておいた」から始まり、「この世界に潜む…」に向かい、「戦って、戦って」とリフレインする。(「タガタメ」)
直接参考にしたとは思わないが、谷川俊太郎氏の作品にはしばしば使われる手法で、しかも氏の傑作に多い。
「生きているということ/いま生きているということ/それはミニスカート/それはプラネタリウム」、「いま地球が廻っているということ/いまどこかで産声があがるということ/いまどこかで兵士が傷つくということ/いまぶらんこがゆれているということ」(「生きる」)
という具合だ。
ミスチルの歌詞はしかし、視点の上下で大小を繋ぐだけでなく、水平方向にも動き、左右の矛盾するものをも比較的簡単に結びつけようとする。そこがどうやらポストモダンっぽく、いくらか印象が薄くなる所以ではある。
文学作品そのものであれば、おそらくは弱みともなろうそのことが、しかし音楽であるがゆえに、聞きやすさという効果をもたらす。音楽とはそういうジャンルで、人間は「連鎖する生き物」で「左の人 右の人/ふとした場所できっと繋がってる」。(「タガタメ」)
音楽とは水平に人と人を繋げてゆくジャンルだ。矛盾はアウフヘーベンされず、ポストモダン的に変容しつつ、しかし包括は果たせない。詩を歌にすることはあり得ても、歌詞が詩と化さない理由の、それが本質と言えば本質である。たとえば Mr.Children という名称自体、時間軸の右と左をなんの躊躇もなく結びつけたものだが、包括的な一つの人格像は結ばない。しかし結ばなくとも、音楽は流れるのだ。
小原眞紀子
http://www.youtube.com/watch?v=2n3aYimBgKU&feature=share&list=PLD59B015D377BDFB4
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■