季刊というのは風情がある。めぐる四季とともに文学が歩むなら、俳句雑誌にはぴったりだ。季節の廻りとともに日本文化の全体像を俯瞰することもできよう。
もちろん小説誌の場合、月刊か季刊かは版元の現実的な都合にすぎまい。たが、たとえば文藝のように季刊であることにともない、ある程度の厚みも保証されているなら、やはりその一冊に「全体性への欲望」が芽生えるものなのか。日本文化を超え、世界までも。
文藝 春号の特集はグローバルからミニマルまで、文化の表層を、また著者・読者の内面をも撫でてゆこうとする「欲望」に満ちている。特集は「世界文学とは何か?」だが、巻頭は新人賞の選考委員による対談「作家になるための心得」というあんばいだ。この志の高低のギャップはちょっと見もの、というか面白い。
世界文学とはようするに、日本文学とかアメリカ文学といった慣用的なカテゴライズを無化しようとする概念だろう。それらの共通項を見つけてゆくという作業になろうが、同じ人間がすることだから当たり前っちゃ、当たり前だ。特集は、ハーバード大のデイヴィッド・ダムロッシュと、昨今、世界文学関係のイベントで人を集めた池澤夏樹による東大の講演の再録が多くのページを占め、アカデミックな雰囲気なのだが。
ポストモダン的かつ言語的になれば差異が際立ち、言語的差異を無視した人間の共通項に注目するというプレモダンの立場に立てば、「事実」や「出来事」に依拠するしかないのは当然の帰結だ。ふさわしい場は本来、大学の講堂でなく、アウシュビッツやフクシマということになる。
だとすれば山田詠美と星野智幸の対談「作家になるための心得」で語られる、うんざりするような下世話さこそが世界の書き手志願者たちの共通項であり、書き手を読者としてマーケティングするしかない世界的に共通の出版状況という「事実」を示す。
そして文藝で読むかぎりやはり、そういった「事実」の方が切実に迫る。編集後記には、世界文学は (書き手志願者であろう) 読者が (河出書房から出版されているそれを?) 読むことからしかはじまらない、といったいかにも編集後記的な苦しい記述も見られる。
読者の現実がどうであれ、カルチャーセンターの小説教室テキストでなく、文芸誌を名乗る以上、高い観念を志向する身振りは必要だ。なんちゃってであろうと、それが文芸誌の宿命だが、春号でうっかり世界を包括する欲望など示したら、次に夏号ではどうするのか。まあ、余計なお世話だろうが。
こういった文芸誌の試みる全体性は、下は「作家になるための心得」、上は世界共通の均一化された現実感に締めつけられた、ごくスタティックなものに過ぎない。編集後記に述べられている「ライヴ感」とは、その間に挟まれた作家たちとのやりとりの感想だが、そんなところでうろうろしながら、彼らは、そして私たちは本当の意味でライヴ = 生きているのか。
全体性を取り戻すべきなのは文芸誌などではなく、書くことと読むことで人間たらんとする我々だ。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■