『現代詩人論』は〝現代詩の詩人論〟という意味である。日本では伝統的に、第二次世界大戦を挟んで自由詩の歴史を『近代詩』と『現代詩』に分けるのが一般的である。明治維新以降の近代日本に現れた一群の詩を『近代詩』と呼び、第二次世界大戦後の新生民主主義国家に現れた詩を『現代詩』と呼び習わしてきたのである。
戦後半世紀以上経ってしまった今では異和感があるかもしれないが、『現代詩』には〝同時代の詩〟という意味があった。今現在書かれている詩という意味である。また一説にはフランスで『現代の詩』(Poésie Moderne)という叢書が刊行されていて、その訳語から『現代詩』という名称が生まれたのだという。
『現代詩』という呼称自体は既に戦前からあったが、日本が民主主義国家に生まれ変わるのに合わせて、戦前の詩と今の詩を区別しようという機運が詩人たちの間に生じたのは確かである。1950年代から60年代にかけては、著名詩人たちが戦中に大政翼賛詩(戦争協力詩)を書いた暗い記憶がまだ生々しかった。その是非はここでは問わないが、今現在書かれている詩は戦前のそれとは違う、詩を政治の道具にしてはならないという詩人たちの意志が、『近代詩』と『現代詩』という区分を生み出したのである。
ただ『現代詩』を詳細に分析すれば、それは二つの文学潮流(エコール)に分類することができる。『戦後詩』と『現代詩』である。『戦後詩』は主に従軍経験者によって書かれた一群の詩を指す。『現代詩』は従軍経験のない戦中派の詩人たちによって生み出された。戦後の詩は、『近代詩』とは異質の同時代詩であるという意味で『現代詩』と総称されるようになったが、その内実は思想表現や技法から、従軍派の『戦後詩』と戦中派の『現代詩』という二つの流派に分類できるのである。
『戦後詩』は主に戦争体験を主題に、そこから生じた思想を表現する詩だった。吉本隆明が『戦後詩史論』で論じたように、彼らは戦前のモダニズムやプロレタリア詩の技法を基盤としていた。新生日本の新たな思想を表現する詩という意味では斬新だったが、技法的にはおおむね戦前のそれを受け継いでいた。
これに対して『現代詩』は反思想詩という立場を取った。戦後日本の混乱を反映して、60年安保、70年安保という、当時の若者たちの心を揺さぶり、行動に駆り立てる事件が起こった。このような政治闘争をメルクマールとして、詩は再び、戦中とは違った形で政治的思想信条の表現の道具になっていった。『現代詩』派の詩人たちは、詩が政治を含む意味伝達の道具になることを明確に拒絶したのである。
『現代詩』の中核を担ったのは、東京大学出身のエリート学匠詩人たちだった。彼らは記号論から構造主義に至る当時のヨーロッパ最新思想動向をかなり正確に把握しており、同時代のフランスの文学者たちの作品成果から、後にポスト・モダニズムと呼ばれることになる思想と方法論を敏感に先取りしていた。『現代詩』は言葉を通常の意味伝達道具として使用するのではなく、言語表現そのものを現代世界と拮抗するような構造物と為すことを目指したのである。
その帰結として、『現代詩』は極めて難解な表現になった。現在でも『現代詩』と聞くと、読んでも全く意味が理解できない難しい詩を思い浮かべる方が多い。その場合、読者の念頭にあるのは『戦後詩』ではなく、『現代詩』派の詩人たちの作品である。
ただもちろんこれは便宜的な区分けである。試みに、主な『戦後詩』と『現代詩』派の詩人たちの処女詩集刊行年度をリストアップしてみる。
■『戦後詩』派■
鮎川信夫 『鮎川信夫詩集 1945-1955』昭和30年(1955年) 35歳
田村隆一 『四千の日と夜 1945-1955』昭和31年(1956年) 33歳
吉本隆明 『固有時との対話』昭和27年(1952年) 28歳
石原吉郎 『サンチョ・パンサの帰郷』昭和38年(1963年) 48歳
谷川雁 『大地の商人』昭和29年(1954年) 31歳
■『現代詩』派■
入沢康夫 『倖せそれとも不倖せ』昭和30年(1955年) 24歳
岩成達也 『レオナルドの船に関する断片補足』昭和44年(1969年) 36歳
渋沢孝輔 『場面』昭和34年(1959年) 29歳
飯島耕一 『他人の空』昭和28年(1953年) 23歳
大岡信 『記憶と現在』昭和31年(1956年) 25歳
鮎川信夫や田村隆一など同人誌『荒地』に集った戦後詩人たちは、戦後すぐに旺盛な活動を開始しており、『現代詩』派の詩人たちからは、実年齢的にも詩人としてのキャリアという面でも先行世代と認識されていた。しかし処女詩集刊行年度で言えば、『戦後詩』も『現代詩』も昭和20年代後半から30年代初頭に一気に詩壇に現れている。
これは『戦後詩』派の詩人たちが、戦前・戦中に自由な表現を奪われていたためである。また戦後民主主義の第一世代として大人になった『現代詩』派の詩人たちは、処女詩集刊行当時はその多くが大学を卒業したばかりの20代の若者だった。
厳密に言えば、ほぼ同時期に詩壇に現れた『戦後詩』と『現代詩』は、相互に影響を与えながら戦後の詩を生み出していった。『戦後詩』の中核になったのは『荒地』の鮎川と田村であり、過酷なシベリア抑留体験を持つ石原吉郎が、『荒地』派とは別の意味での実存的影響を与えた。思想面では吉本隆明が一貫して戦後思想を担った。
『現代詩』の中核になったのは東大系の同人誌『アモフル』に集った入沢康夫と岩成達也である。『現代詩』は本質的に、彼らに二人よって言語表現面でも理論面でも完成されたと言ってよい。その他の詩人たちは『戦後詩』と『現代詩』の影響を受けながら、それぞれ独自の詩の表現を追い求めていったのである。
複雑に影響を与え合ったという意味で、『戦後詩』と『現代詩』は戦後の自由詩の双璧である。どちらが欠けても戦後の詩は成立しない。ただ本稿では『戦後詩』と『現代詩』の詩人たちを区分して論じることにする。『戦後詩』と『現代詩』は過去の文学潮流として総括されるべき時期に差しかかっていると考えるからである。
『戦後詩』は戦後思想を端的に表現した芸術であるという意味で重要である。また『現代詩』は、明治維新以降に書かれた詩とは全く質の異なる表現であったという意味で、極めて高い文学的意義を持っている。単純化すれば、『戦後詩』と『現代詩』は戦後の思想と技法の両翼だが、それぞれの特徴を区分して考えた方が総括しやすいのである。
私は1980年代から本格的に詩に携わったが、90年代初頭には、『戦後詩』や『現代詩』は、早晩、過去の文学潮流として総括されるだろうという予感を持っていた。まだ多くの人が『戦後詩』や『現代詩』を〝自由詩〟とイコールだと考えていたが、それは違うと確信していた。『戦後詩』や『現代詩』は、戦後の一時期に生み出されたある書き方、一つの世界認識の方法である。時代が大きく変化し始めた時には、当然その書法=世界認識方法が変わらなければならない。しかし『戦後詩』や『現代詩』は、明らかに時代の変化に対応できなくなっていた。
『戦後詩』は、簡単に言えば戦前の皇国史観国家体制をよく知る詩人たちが、戦後の民主主義体制への激変に際して、どのような思想・信条にもとらわれない個の実存を世界と対峙させようとした詩である。ある意味で民主主義を含む既存思想の〝白紙還元〟が起こったのであり、彼らは極限までやせ細らせた実存的肉体思想を表現の核とした。
しかし終戦直後は鋭利な棘のように世界に対峙していた彼らの実存は、高度経済成長期を経て徐々に相対化されていった。もはや個の実存では捉えきれないほど世界は肥大・拡散化してしまったのである。吉本隆明が『戦後詩史論』で『修辞的な現在』と呼んだ状況である。吉本の〝修辞的〟という意味は、詩が表現すべき思想を失って、トリビアルな言語遊戯的修辞に流れてしまったという意味である。
『現代詩』にも別の困難が降りかかった。状況的に言えば、現代詩人の多くは、思想表現を核にする戦前のプロレタリア詩の流れを汲む『戦後詩』への反発から、『現代詩』と呼ばれる独自の表現を作り上げていった。『現代詩』派の詩人たちにとって、『戦後詩』は一つの仮想敵だったのである。この試みは入沢や岩成によって、あらゆる意味・思想に還元できない抽象的言語総体表現を作り上げることに成功した。しかし一方で、個の直截な思想・感情表現を、詩から排除することになってしまった。
乱暴に言えば、『現代詩』の書法に忠実である限り、近親者が亡くなっても大地震が起こっても、それをストレートに詩で表現することはできないのである。それは詩という文学ジャンルが詩人たちに強いる残酷でもある。詩人は『戦後詩』や『現代詩』、あるいは『抒情詩』の詩人を兼ねることが難しいのである。
詩は本質的には〝自由詩〟――思想的にも表現技法的にも何の制約も持たない自由な表現である。しかし完全に自由で自在な表現などありはしない。詩が自由詩だということは、詩人たちが個々に自由の範囲を狭め、一つの独自な書き方(書法)を作り上げていくことを意味する。そしていったんある書法を確立すると、多くの詩人が自らの書き方に縛られる。
『戦後詩』、『現代詩』に限らないが、明治維新以降の自由詩人の代表作のほとんどは処女作である。処女詩集は傑作と呼ばれるが、第二詩集はその横ばい、第三詩集あたりで翳りが見え始め、第四詩集以降はもう何を書いているのかわからない詩人が大半である。この残酷な事実は、詩人にとって独自の書法を作り上げるのがいかに困難な仕事なのかを語っている。また一人の詩人が複数の書法を持つ(使い分ける)ことの難しさを示唆している。
衆知のように1990年代から高度情報化社会が始まった。それは静かだが、従来の工業中心社会とは明らかに異なる社会構造と人間心理の変容をともなう激変だった。この変化によって『戦後詩』や『現代詩』は、大局的に捉えれば、ともに詩人の実存を核とする表現であることが徐々に明らかになっていった。乱暴に言えば『戦後詩』の思想は〝私〟の思想であり、『現代詩』の特異に見えるイメージもまた、あくまで〝私〟が生み出した表現なのである。
しかし高度情報化社会の個の在り方は従来と異なっている。〝私〟と呼ばれる個の実存は世界内の一結節点に過ぎない。中心も周縁もなく無限の網の目状に拡がった世界の中で、様々な情報、思想・観念、感情が結節するポイントとして〝個〟の存在が捉えられ始めている。〝私〟が世界を表現するのではなく、多様で時には異和でもある世界が、基本的には空虚な器である〝私〟の中で結節するのである。
この変化に際して、『戦後詩』や『現代詩』の総括は避けては通れない必須の仕事だったと思う。言語表現は常に古くて新しい。新たな社会が出現したとしても、今まで誰も見たことのない言語表現が突然現れることなど期待できない。戦後の飛びっきりの俊英たちが作り上げた表現から、次代でも有効な思想・表現要素を汲み上げるしかないのである。
もちろん『戦後詩』や『現代詩』を総括しようという試みは何度も行われてきた。吉本隆明の『戦後詩史論』(初版・昭和53年[1978年])を嚆矢として、80年代には平出隆や稲川方人といった戦後詩系の詩人たちがその総括に乗り出す気配を見せた。90年代には現代詩系の松浦寿輝がそれを試み、00年代には私と同世代の野村喜和夫や城戸朱理らがその素振りを見せた。しかし彼らの試みは不十分なまま放棄されたと思う。
詩の世界では実作者と理論家を兼ねるのが常識である(ただし理論は必ずしも論理的に表現される必要はない)。つまりある理論を提示しても、それが自己の作品で実践され、社会的通有性を持つ表現として様々に試されなければその有効性を証明できないのである。
しかし戦後詩人である吉本は除くとしても、平出や稲川、松浦、野村、城戸といった詩人たちの作品が、90年代以降の社会に対応した新たな表現になっているとは私には思えない。革新の身振りとは裏腹に、彼らの詩は『戦後詩』や『現代詩』の亜流であるように私には見える。理論として『戦後詩』や『現代詩』を相対化し得ているなら、詩人は実作でそれらを超克する可能性を示さなければならない。
もちろんこのような理論的、詩史的な思考を持たなくても詩は書ける。『あなたを愛しています』という散文を、『あなたを/愛しています』と行切りすれば詩的雰囲気が生じる。それが詩の発生のための重要な要素であることも確かである。しかし一方で、詩には日本文学の中で課せられた義務がある。
日本文学には短歌・俳句・自由詩・小説・演劇・評論といった文学ジャンルがあり、それぞれが適切な役割を果たすことで日本文学の全体像が形作られている。作家に課せられた、ほとんど倫理に近いジャンル固有の役割があるのである。それを忘却すればそのジャンルは衰退し、遂には日本文学から消え去ってしまうことすらある。特に自由詩の場合、その危険性は高い。
自由詩は明治維新(1868年)以降に日本文学に現れた全く新しい文学ジャンルである。長い日本文学の歴史の中でも、全く新しい文学ジャンルが出現したのはこの時だけである。そして多くの読者は意外に思われるかもしれないが、自由詩の出現は平安時代以来続いてきた漢詩の滅亡と同義である。維新を境にして、それまで漢詩が担ってきた役割を自由詩が担うことになったのである。
太古の昔から日本は中国を文化的規範としてきた。先進技術や思想は漢籍を通して日本に流入し続けたのである。その構造が明治維新を境にヨーロッパに変わる。維新以降、日本の文化的規範がヨーロッパになるという、有史以来、未曾有の大変革が起きたのである。それが古代中国語で読み書く漢詩の滅亡と、ヨーロッパ詩の翻案から始まる自由詩ジャンルの成立になって表れている。
日本語は膠着言語と呼ばれるが、その原初的な表現基層は単調だ。強調するときは『痛し痛し』と表現を重複させる。それが漢字の流入によって高度観念化される。『激痛』や『沈痛』といった表現が生まれるのである。平板な日本語基層は常に活性化されることを希求しているが、維新直後は別として、最近では漢字熟語が増加していないことからもわかるように、現代ではヨーロッパ言語(カタカナ外来語)がその役割を担うことになった。そうしなければ日本語はすぐに単調な表現に陥ってしまい、新たな思想や感覚表現を生み出せなくなるのである。またこの活性化構造は日本文学全般に当てはまる。
日本文学は維新以前は漢籍からの影響で文学を活性化させてきた。芭蕉の『奥の細道』の散文は、同時代の井原西鶴らのそれと比較すれば明らかなように漢文体であり、それまでなかった斬新な漢字交じり文だった。そこには当時新たに流入していた儒教の大きな影響がある。同様のことが戦後文学にも言える。
戦後文学は文学潮流でいえばダダイズムからヌーベル・ロマンに至るまで、思想では実存主義からポスト・モダニズム思想に至るまで貪欲に欧米の最新文学・思想動向を取り入れたが、そのアンテナになっていたのは自由詩である。自由詩は時に生硬で難解な表現だという批判を浴びながら、いち早く新たな文学動向を把握し、それを驚くべき強引さで日本語で表現しようとしてきた。つまり日本文学において、自由詩はかつての漢詩と同様、前衛であることを義務づけられているのである。
本稿では20世紀半ば、つまり昭和20年(1945年)の第二次世界大戦後に現れた自由詩のうち、『現代詩』派に属する詩人たちの作品を検討していく。『現代詩人論』によって、『現代詩』派の詩人たちの仕事の何がその可能性を終え、何が引き継ぐべき遺産なのかを明らかにしたい。『現代詩人論』の後は『戦後詩人論』に移り、戦前の『近代詩人論』までこの仕事を続けたい。また本連載で掲載する原稿は、一部同人詩誌『夏夷 leaflet』に発表したものだということをお断りしておく。
余談になるが、最初に『夏夷 leaflet』に発表したのは『渋沢孝輔論』だった。その際、何人かの親しい詩人たちから、『なぜ今渋沢孝輔論なのか。詩人ですらもうほとんど誰も渋沢の作品を読んでいない』という感想が届いた。ある程度予期していたことだが、それでも多少のショックはあった。『戦後詩』、『現代詩』の総括が遅れ、新たな世界に対応した新たな詩の可能性を見出せないということは、こういう事態を引き起こすのである。
それは詩人たちにとって決して人ごとではない。私には今、『戦後詩』、『現代詩』に属する詩人たちの作品が、ことごとく人々の記憶から消え去り始めているように思える。残酷な言い方をすれば、肉体はまだ存続しているのに、詩人たちがこれまで生涯をかけて取り組んできた詩の可能性が尽き始めているのである。
預言めいたことを言えば、この流れにはしばらく歯止めがかからないだろう。『戦後詩』、『現代詩』の詩人たちの仕事はいったん人々の記憶から消え去り、相当期間を置いて、その中の一部が継承すべき20世紀の詩の遺産として再評価されるはずである。もちろん生きている限り、『戦後詩』、『現代詩』の詩人たちが新たな詩の動向を生み出す可能性はある。また付け加えておけば、『戦後詩』、『現代詩』に属さない00年代以降の詩人たちが、若いという理由だけで新たな詩の可能性を担えるほと事は簡単ではないと思う。
私が読んだ限りということになるが、00年代以降に現れた詩で新たな可能性を感じさせる作品は少ない。むしろ思想的にも技術的にも大きく退行していると思う。基本的に〝個=私〟が捉えた現代的事象と感情表白中心の抒情詩がほとんどである。それをどこかで読んだことのあるような現代詩風の修辞で飾っている。厳しいことを言えば、漫然と『戦後詩』、『現代詩』の影響を受けた底の浅い言語表現が大半だった。
自由詩に限らないが、何が終わり、どんな新たな世界を表現しなければならないのかを個々の作家が明確に把握していなければ、新たな表現は生まれない。私が新たな可能性を感じる若い詩人は今のところ大野露井氏だけである。氏は自由詩、小説、批評を同時に手掛ける作家であり、その総合文学的な指向も新たな文学パラダイムを示唆しているように思う。
自由詩は前衛でなければならなず、その役割を見失えば、日本文学におけるジャンルの存在意義を喪失することになるというのは私の文学的確信である。しかしもし自由詩が亡びても私はそれほど悲しまないだろう。現在に至るまで、ある種の人々にとって漢詩が大いなる日本文学の遺産であるように、自由詩もそれなりの日本文学の成果として残るはずである。
もちろん私は実践面でも理論面でも、自由詩の新たな可能性を明らかにしたいと望んでいる。しかしその正否は自分ではわからない。若い頃に20世紀の『戦後詩』、『現代詩』の洗礼を受け、21世紀初頭の世界的変容期を生きることになった詩人の義務として、今は自分が信じる仕事を淡々とこなしていこうと思う。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■