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大野露井(おおの ろせい)という作家が出版した少部数の限定豪華本を読んだ。『Wunderschlank 百奇箪笥』『Comical People 愉快な人々』『結晶舟歌』(出版年度順、書誌データは巻末に掲載してある)の三冊である。『百奇箪笥』はある好事家が、コレクションを見せてほしいと訪ねてきた客人に蒐集品の説明をする体裁を取っている。もちろん蒐集品はこの世には存在しない架空の物である。伝聞に基づいて世界各地の奇怪な風俗や物を描く書物はギリシャ・ローマ時代から存在し、現代ではボルヘスの『幻獣辞典』のようにその枠組みを活用した作品もある。『百奇箪笥』もそのような系統に属する書物である。縦12.4×横8.9センチの小さな本だが、見開きの右ページに文章が、左ページに写真が掲載されている。
『百奇箪笥』本文
『愉快な人々』は翻訳である。十九世紀中頃のフランスの風刺画家、J・J・グランヴィルの挿絵入りの軽い読み物なのだが、その制作経緯はなかなか複雑だ。1851年開催のロンドン万国博覧会に、マリア・フシナータというタピストリー作家が、動物を擬人化したグランヴィルの風刺画に基づくタピストリーを出品した。ところで同じ博覧会に、ヘルマン・プル-ケという剥製作家が、人間のようなポーズを取る動物の剥製を出品して評判を呼んだ。これに目を付けたのが出版人のデヴィッド・ボーグで、プル-ケの剥製の写真に文章を添えた本を出して成功を収めた。気をよくしたボーグは、今度はグランヴィル原画のフシナータのタピストリーを銅板画に起こし、文章を添えて出版したのである。それが『愉快な人々』である。
どちらの本も、プル-ケの剥製写真やグランヴィルの風刺画がメインの〝企画本〟のため文章の作者がわからない。いわゆるライター仕事で、書き手の方にも文学作品であるという意識がなかったためだろう。翻訳の底本は1852年版だがロンドン万博会開催中に出版された版もあるようだ。万博のお土産品という位置付けでもあったのだろう。『愉快な人々』はグランヴィルの愛好者にとっては重要な本だが、文学的評価はさほど高くない。ただ見方によっては、いくら探究してもオリジナルが特定できないポスト・モダン的作品である。またそれゆえ露井氏はこの本を翻訳しようと考えたのだろう。
『愉快な人々』本文
『結晶舟歌』は全八章から構成される三一九行の長詩である。第Ⅰ章が九行、最終Ⅷ章が十行で、第Ⅱ章からⅦ章までには各五十行が収録されている。ほぼ正方形に近い版型だが、和紙でくるんだ厚紙を四本の皮紐で留めた凝った造本である。最初と最後の章を除いて五十行で統一し、最後の章は十行だが最初の章は一行少ない九行にしているなど、作家の高い構成力と強い美意識が〝結晶〟した書物である。
『結晶舟歌』本文
露井氏は彼のホームページ『唐草工房 Factory Arabesque』の情報によると、国際基督教大学教養学部人文学科を卒業後、現在は同大学院アーツ・サイエンス研究科博士後期課程に在籍しておられるようだ。生年月日の記載はなかったが、恐らく三十歳前後の若い研究者で創作者だと思う。研究者としての専門分野は平安文学らしい。また露井氏の三十代は新しい世代である。
インターネットが普及し始めたのは一九九〇年代だが、今やなくてはならないインフラである。三十代は物心ついた頃からインターネットを使い慣れた最初の世代だろう。彼らが社会の中枢を占めるようになれば、既存の社会システムは現在よりもさらに変わるはずである。ただ変化は常に内部から起こる。どの業界の実態も一皮剥けば古色蒼然たるものだ。ネットが発達したからといってプロダクト生産方法が一変するわけではない。それは文学も同じである。作家が苦労して作品を書き発表して流通するという仕組みは変えようがない。しかし誰もが簡単に独自のメディアを持って、ダイレクトに不特定多数の読者の反応を得ながら作品を発表できる状態は文学の質を変える。パブリックな文学システムの変化はその結果として起こるのである。
露井氏の作品はそのような変化をはっきり反映している。具体的に言えば少部数限定豪華本という出版形態と、それに合ったテキストのまとめ方である。一九八〇年代の初め頃まで限定豪華本はそれなりの数が作られていた。しかし活版からDTPへの移行によって従来的な意味での職人が不要になり、それに合わせるように造本職人も大きく減少してしまった。ただ露井氏は、かつての豪華本のリバイバルを意図しているわけではないだろう。紙が作品発表媒体の全てだった作家たちにとって、豪華本は自己の高い社会的評価を物品化した趣味的嗜好品だった。だが初めからネットが自己の発言や作品の発表場所だった世代にとっては違う。〝書物概念〟が変わったことで生まれた、結果論としての豪華本なのである。
ネット世界には始まりもなければ終わりもない。中心と周縁も存在しない。それは人間の世界認識に変化をもたらす。しかしそれはドラマチックなものではなく、静かで内的なものである。書物には始まりのページがあり終わりのページがある。世界開闢があり世界の終末があるのである。世界中の民族神話・宗教に確認できるようにそれは直観的真理であり、かつ、ネット的世界認識に背反する。ただどちらが正しいのかといった問題設定はあまり意味がない。
始まりと終わりがある/ないと措定しても、中心と周縁がある/ないと措定しても世界は存在する。つまり世界を一定の調和総体として保つ〝原理〟は存在するが、それはもはや始まり/終わり、中心/周縁概念では捉えられないということだ。世界を一定の調和総体であるという意味での〝書物〟を措定すれば、従来の書物=世界概念は変わる。相変わらず書物には始まりと終わり、中心と周縁があってもそれはもやは世界を成立させる〝原理〟ではないのである。
まったく、君のように傲慢な客人にも困ったものだ。たったの半時間で、私の蒐集品を披露しろというのだから。(中略)
さあ、ここに君にぴったりのものがある。この百奇箪笥を見るがいい。(中略)この箪笥の抽出しに収まらないものなど、およそ世の中には存在しないのだから。創世記から黙示録まで、オリンポスから新大陸まで、半時間で眺めるがいい。(中略)
これから君が目にするものが、すこしでも君の魂を映す鏡となることを祈るよ。世の中には政治と逢引き――おや、この二つはおなじものかな――のほかにも顧慮すべき関心事がある。(中略)君がまじめに私の話に耳を傾けるなら、君の生産的な人生はずっと豊かなものになるはずだ・・・。
(『百奇箪笥』冒頭)
作家は『百奇箪笥』を世界そのものだと定義している。箪笥の抽出しには世界のすべてが詰まっているのである。文体は特定の時間と空間を意識させない翻訳調で、これから日常ではあり得ないことが起こることを期待させる。しかし世界の神秘(原理)を解き明かすと書き始められたあらゆる書物がそうであるように、『百奇箪笥』で語られるのはその痕跡と残骸である。この系統の物語では、世界の神秘を明らかにするという意図が、どこに落としどころを見出すのかが最も重要なのである。
注意深い伯爵夫人は、かわいそうな少年の亡骸を火葬にした。そして好奇心から新鮮な灰を火かき棒でかき混ぜていると、その場でばったり倒れて死んでしまった。彼女は無傷で焼け残った少年の義眼と目が合ったのである。
それ以来、この眼を正面から見据えたものには必ず禍いがふりかかると言われている・・・・・・。
(『百奇箪笥』『禍いの眼』)
『百奇箪笥』は世界の神秘を見つけ出そうとする視線が、自らの眼の鏡像である『義眼』に見つめ返されることで終わる。その先にあるのは〝死=不可知〟だけである。実際、義眼に見つめられた伯爵夫人は死ぬ。物語の筋だけを追えば、『百奇箪笥』は数多く書かれた十九世紀ゴシックロマン的怪異譚とさほど変わらない。しかし『百奇箪笥』の書物形態が強烈にそれに異議申し立てをしている。『百奇箪笥』は書物の物理的形態を含めて評価されなければならないと思う。
奇妙な言い方かもしれないが、作家は驚くほど易々と伝奇譚のクリシェに乗っている。それが可能だったのは作品=文章を収録するための書物の物理的形態、言い換えれば作品に先行する〝書物概念〟があったからだろう。『百奇箪笥』は作家が一冊の書物の中で世界の神秘を探究する物語ではない。むしろ世界の神秘は手が付けられないほど拡散してしまっている。その断片をかき集め、一冊の書物に閉じ込めたのが『百奇箪笥』である。書物を通して究極的な認識を探究・表現するのではなく、あらかじめ分散化した認識を物理的書物形態によって繋ぎ留めているのである。そこには従来の書物概念の転倒がある。
彼らが自分たちとそっくりな剥製の獣たちについて述べた言葉を聞いたのですから、本来なら笑い死にしてもいいような場面ですが、実際のところ私は恐怖に駆られ、彼らのそばにいることが不安でした。(中略)
そのとき、遠くでデント社の時計が四時を打ちました。(中略)ふと目をこすって見ると、もう彼らは跡形もなく、どの扉から外へ出たのかもわからない始末でした。
私はこれらの出来事を警部に報告しました。私の得た見返りと言えば、おまえは夢を見ていたのだというお言葉と、二週間の夜勤手当の停止処分だけでした。
(『愉快な人々』『博覧会の剥製ご一行 警察官XXによる報告』)
既述のように『愉快な人々』は単純で複雑な書物である。グランヴィルの銅板画がメインだが、それはマリア・フシナータのタピストリーから起こされたものであり、原画がどこにあったのか、グランヴィル自身がこの本に関与していたのかは判然としない。またお金儲けのための企画本で、絵に添えられた文章の作者がわからないだけでなく、文章の意図も曖昧だ。グランヴィルの絵は風刺画だが、擬人化された動物の描写で人間世界を風刺しているとは限らない。引用の『博覧会の剥製ご一行』のように、博覧会を警備する警官の前に服を着た動物たちが現れて、仲間の動物の剥製を見物して大騒ぎするという滑稽で不気味な文章もある。
露井氏がグランヴィルの絵を愛好しているのは確かだろう。しかし翻訳して出版までしようと思い立った理由はそれだけではあるまい。この本は複数の人間によって作られたが、誰もそこに読者に伝達すべき思想をこめていない。出版人のボーグは『本書の中心は挿絵である。よって我々は、文章への批判には頓着しないつもりである』と書いている。またグランヴィルの絵もたまたま博覧会場に展示されていたフシナータのタピストリーから取られただけである。偶然と僥倖によって大急ぎで作り上げられた書物なのだ。この本には中心がない。本にはグランヴィルの絵が消せない聖痕のように散りばめられているが、絵も文もバラバラなのだ。中心がないからこそこの書物には外殻が、それに秩序をもたらす物理的形態が必要になる。そのための制作司祭を露井氏が日本で担ったように思われる。
幾何学の鼻歌もらすうち
船は黙々と離岸する
八角形の雲は灰色
なかで電気が爆ぜている
船長の義手の鉤は樽を割り
葡萄酒どくどく流れ出て
僕を早くも中毒させる
あらくれ共が騒ぎ出す
「おい、海図が溶けちまった!」
(『結晶舟歌』Ⅰ全篇)
『結晶舟歌』は一種幾何学的な秩序を持つ言語の旅である。『僕』は海賊船に乗って大海原に乗り出す。『海図が溶けちまった!』とあるように、行き先も目的もない航海である。ある軍港に寄港して酒場に行くと、女将さんが『火を貸してくださいな(ヴ・ザヴュ・デュ・フー)』と声をかけてくる。『でもよそ者の僕にはそれが/「あんた狂ってるの?(ヴ・ゼット・フー)」/と聞こえ』とある。僕は狂っているわけではない。しかし火が、海図が、目的が、中心がない以上、僕は狂っていかざるを得ない。狂気をよそおわなければ、終着点のない旅に、目的のない人生に耐えることはできないのである。
もはや僕らは海賊だった
略奪、簒奪、強奪、槍奪
劫奪、横奪、削奪、侵奪
辞書と競争するように
僕らは帆に風を送り続けた
(『結晶舟歌』Ⅲ部分)
『辞書と競争するように/僕らは帆に風を送り続けた』とあるように、旅を可能にするのは言葉である。しかし旅に出た以上、擬似的なものであれ目的は、到着地は必要である。言語の旅は、旅の終着点-(疑似)焦点を求めて彷徨っていく。
灯台の姿がはじめて見える
あるいは進むべき道を指すのかと
光の帯を指先で追えば
粒子が波と交わるあたりに
あの女が立っていた
だがあの女とは誰なのか?
(『結晶舟歌』Ⅵ部分)
『結晶舟歌』は、『僕』の『君』への語りかけという体裁を取っている。君が誰なのかは明示されていない。ただ『さっき火を借り僕を睨んだ/お嬢さんは君に似ていたよ』、『僕は馬に君の名をつけた』、『石ころだけで君はいない』とあることから、僕の恋人、あるいは憧れの女性なのだろう。しかし詩篇後半部に現れる『あの女』は君とは違う女性である。あの女は『進むべき道を指』し示してくれるイデア(直観的真理)そのものである。しかし『霧が晴れたころには/女の立っていた場所に一艘の舟/それと貧相な船頭が一人』とあり、女は僕に帰途を用意してくれるばかりである。
僕は船頭に『僕は塔を築くために象牙を集めよう/「ねえ、もう帰ろう」』と言って、元いた場所へ、君のいる場所へと帰還する。静かで安全な象牙の塔など存在しない。僕は拡散した世界の中で身を守ることができる塔を作り上げるために、旅に出て象牙=言葉を集めたのである。ただ元の場所に帰っても、僕が君と巡り会い、愛を成就させることはできないだろう。
旅立った港はどの辺りだっけ?
僕と船頭は鼻歌もらす
点が一つじゃ身動きとれぬ
一直線では行き場がない
三角形では逃げ場がない
四角形では挟み撃ちにされるし
五角形は偽善的、六角形は獣道
七角形が幸運の印なんて嘘さ
そして八角形の終着点は
壊れた羅針盤と水の底
(『結晶舟歌』Ⅷ全篇)
『結晶舟歌』最終部は冒頭部と明確な対応関係を持っている。冒頭に『八角形の雲は灰色』とあるように、僕の旅は『八角形』を巡る(辿る)ものであり、かつ八は『結晶舟歌』の章数と正確に対応している。〝8〟を横にすれば無限記号〝∞〟になるのは言うまでもない。末尾には『そして八角形の終着点は/壊れた羅針盤と水の底』とあり、最初から旅に目的などなく、あらかじめ用意された失敗-あるいは永遠循環-のためのものだったことが示唆されている。しかしなんと用意周到な必敗の旅だろう。これだけ美しい幾何学的構成を持ちながら、冒頭Ⅰ章と最終Ⅷ章では詩篇の行数が一行だけ違う。Ⅷ章は十行だがⅠ章は九行で、一行足りない。つまりこの詩篇には一行の空白=欠落がある。
この欠落が世界を秩序あるものに保っている〝原理〟であるのかどうかは問題ではない。原理を明示できるにせよ空白としてしか措定できないにせよ、なんらかの求心点が設定されていることが重要である。従来の文学は、まず表現の核とでも呼ぶべき観念を措定してそこから様々な表現を生み出していた。しかし露井氏はまず言語的外皮(表層)を完璧に仕上げる。そこから探究の手を伸ばして欠落としてしか措定しようのない、だが相対的には存在すると直観されるブラックホールのような原理を炙り出そうと試みる。ここには明らかなパラダイム転換がある。そして露井氏の指向はほとんど肉体に根ざしたものであり、それを反映して彼のテキストも、それを包み込む書物の物理的形態も驚くほど美しい。
一九九〇年代以降、詩(俳句、短歌、自由詩)の世界には様々な新しい作家たちが現れた。その代表的作品は読んだつもりだが新しさは感じなかった。むしろ従来の文学よりも退行していると思った。過去の文学エコールを適当になぞり、そこに現代風俗をまぶしただけの作品に思われたのである。もちろん僕個人の勝手な感想に過ぎない。しかし露井氏の作品には明確な新しさを感じる。その肉体的確信に彩られた文学は明らかに二十世紀文学とは異なる。また今は自由詩や詩的な散文を発表しておられるが、氏は文学全体を綜合的に捉える能力を持っているように思う。露井氏が今後どのような文学活動を続けて行かれるのかは、もちろん僕にはわからない。ただ氏が二十一世紀的な文学の変化を体現した、最初の作家の一人になるだろうことはほぼ確実のような気がする。
鶴山裕司
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■書誌データ■
『Wunderschlank 百奇箪笥』
全36ページ
縦12.4×横8.9センチ
2008年10月1日 初版
著者 大野露井
装丁 quu
製本・印刷 凱留狗工房
発行者 町田真琴
発行所 子羊舎
『Comical People 愉快な人々』
全104ページ
縦21.4×横15.3センチ
二〇〇九年七月一日 初版第一刷 発行
画 J・J・グランヴィル
作者 不明
訳 大野露井
発行人 町田真琴
発行所 子羊舎
製本 紅綴堂
『結晶舟歌』
全96ページ
縦15.6×横13センチ
二〇一〇年二月 初版一刷
詩 大野露井
装丁 内田由紀子
発行 紅綴堂
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■