【角川短歌 角川学芸出版 月刊】
短歌(和歌)は少なくとも千五百年以上続く日本独自の文学であり日本文学の基層です。書き文字がまだ存在していない時代から短歌の原型となる表現は存在したと考えられます。しかし現在短歌は読まれていない。もう少し正確にいうと短歌を書く人間しか短歌文学を読んでおらず読むといってもあくまで自分の作品を書き発表するために他者の作品を読んでいるのが現状です。この状態はもうずいぶん長い間続いています。短歌が日本文学の基層だとしてもそれは『万葉集』から『新古今和歌集』の古歌をさすのであって現代短歌は俎上にあがりません。短歌の現代性は別に短歌そのものに根ざした独自のものではなく俳句や自由詩や小説にでも一定の普遍的現象として確認できます。実作としてであれ理論としてであれ現代短歌が文学界全体から本質的な注目を浴びたことはありませんでした。俳句、自由詩、小説の世界はそれなりに密に交流し現代文学全体のインスピレーションの源泉であり続けましたが現代短歌は古代短歌の〝幻影〟であり文学者が啓示を受けるにしてもまがいものの現代短歌より本歌である古歌を読む方が実り多いと捉えられてきたのです。
短歌は歌人たちの集団である歌壇以外では読まれておらず日本文学の中で孤立しています。確かに昨今は口語短歌が盛んです。短歌人口は俳句人口に次いで多くしかも若い作家の増加率は俳句をはるかにしのぐと思われます。しかし口語短歌は形式的思想的な基盤をまったくといっていいほど持っておらずその実態は短い自由詩です。五七五七七定型を規範としないなら短歌は別の表現基盤(アイデンティティ)を見出さなければなりませんがその試みは行われていない。なし崩し的に形式的制約を外して表現の幅を拡げた無秩序な混沌が口語短歌の世界の実態であり作家が『これは短歌である』と宣言しなければ作品のほとんどは短歌と認知できません。大文字で短歌や歌集と銘打たなければひとひねり工夫したツイートとなんら変わりないのです。
このような状態が出現した理由は二つあると思います。一つはいうまでもなく歌人以外は誰も短歌に興味を持っていないことです。口語短歌を変だと感じたとしても他のジャンルの文学者は歌人たちがそれでいいと思っているのならいいんじゃないかとその前を通り過ぎます。他ジャンルの作家が創作の参考に短歌を読むにしても古歌になるわけですから現代短歌がどんなに奇妙だろうと興味はない。わざわざ労を割いて批評や批判したりしてくれないのです。もう一つはずいぶん前から短歌の表現基盤は失われていたということです。江戸期までの短歌(和歌)は『古今』『新古今』を聖典として袋小路的な有職故実の中に逼塞してその表現の力を失っていきました。明治維新以降に正岡子規が出て『万葉集』への回帰を唱えそれが伊藤左千夫や斎藤茂吉に受け継がれましたが実態としてそれは子規写生理論を短歌に援用した折衷技法でありなんら短歌独自のアイデンティティを保証するものではありませんでした。
言い換えると江戸時代までに『古今』『新古今』的短歌の可能性は試し尽くされていました。維新以降の子規の『万葉』回帰も同様でそれが新たな現代短歌の基盤となることはなかった。もちろん『明星』派の清新な自我意識短歌が明治歌壇に花を添えたわけですがそれは維新以降のどの文学ジャンルにも確認できる現象であり短歌独自のものだとは言えない。短歌(和歌)の全盛期が『万葉』から『新古今』に至る五百年ほどだというのは文学史の常識ですが『新古今』成立の鎌倉初期以降現代に至るまで短歌文学はいずれの時代における〝現代短歌〟としても『万葉』『古今』『新古今』といった古歌を新たな表現のための本質的アイデンティティとなしえていなかったわけです。
つまり鎌倉初期以降も形式としての短歌は存在しましたがそのアイデンティティとなり新たな表現可能性を無限に与えてくれるような短歌独自の思想的基盤は失われていました。伝統文学として短歌は過去の作品を〝なぞる〟ことを歌人たちに課してきましたがいくらなぞってもそこから新たな可能性を汲み出せなかったのです。現代はそのような短歌の本質的〝根無し草〟状態が露わになった時代といえるかもしれません。歌壇の総意として『新古今』以降の短歌は実は表現の基盤を失っていたことが承認されあらゆる仮想基盤(先行古典テキスト)が白紙還元された状態が出現したともいえるわけです。ならば混沌としていようと現代の口語短歌が真に新たな現代短歌になる可能性があるという推論も可能になります。またその可能性は確かにあります。しかしそのためにはやはり短歌文学の存在理由を保証しその可能性の源泉となる基盤を発見あるいは再発見する必要があると思います。
短歌が長い伝統を持つ短歌文学の特権を完全に手放してしまえば現在書かれている口語短歌の多くは間違いなく中途半端で稚拙な現代詩として一蹴されると思います。実態はほぼ形式的制約を無視しているにも関わらず短歌的な形式と内容を曖昧な雰囲気としてまといそれを免罪符に短歌文学としての認知を求める甘ったれた表現になってしまうということです。形式に縛られている俳句表現の道は厳しく詩人個々が独自の形式を確立しなければならない自由詩の道も険しいものです。しかし曖昧な短歌的アトモスフィアを漂わせてさえいればどんな表現でも短歌だと考えるのは余りにもぬるい。それは短歌が現代詩の亜流となり古代短歌の幻としての現代短歌のさらに希薄な幻影になってしまうことを意味しかねません。さほど苦労せず文学活動をしているという自己満足に浸るための早道が口語短歌だというならなにもいうことはありませんが心から短歌を愛するなら現代短歌が直面している問題にもっと真摯に取り組まねばなりません。
文学金魚は総合文学を理念としておりかつウエッブ上の文芸誌です。様々な作家の方が批評やエッセイを書いておられますが確かに従来の分断化された文学ジャンルの垣根を越えようという意図が感じられます。そのような場をお借りして現在短歌が置かれている状況を分析し批評したいと思います。また短歌や俳句の世界では大家や中堅と呼ばれる作家の方たちはご高齢の方が多いと思います。彼らはネットはご覧にならないと思いますが口語短歌を作る若い作家の多くがネット上にその活動場所を持っています。若い作家たちがこれからの短歌界を担うわけでそれはネット上での作品や批評発表が基本的インフラになることを意味します。様々な異論反論はあると思いますが若い短歌作家の皆さんにこの批評を読んでいただければと思います。
また一昔前と比べると文学雑誌を巡る状況は大きく変わっています。俳句、短歌、自由詩の世界にはそれぞれ専門誌があります。多くの若い作家は依頼されればそこに書くでしょうがお金を払ってまでそれを熱心に読む作家は年々減っています。今も昔も商業雑誌に書くのが作家のステイタスであることに変わりはないでしょうが雑誌への注目度は以前ほどではありません。ネットの世界に様々なポリシーで運営されている作家のコミュニティがあるように雑誌もまたその編集方針に基づく作家集団によって支えられていることが露わになってきています。商業誌はネットを含めた表現媒体での仕事を総合する形に変化していくはずですがそれは同時にネット媒体が一定の力を持ち商業メディアを相対化することを意味します。表現・発表の最前線が紙媒体だけでなくなるのは確実です。
そうは言っても数あるメディアをいっしょくたに論じるのはちょっと乱暴ですね。僕個人の意見に過ぎませんが『角川短歌』は中庸を守る良い雑誌だと思います。兄弟誌の『角川俳句』は伝統俳句の牙城の趣で常に現代俳句に新風を巻き起こしてきた前衛俳句を完全に誌面から排除していますが『角川短歌』にはそのような偏向がありません。現在の大きな短歌界のトピックである口語短歌も積極的に掲載しています。口語短歌への注目度が足りないとお感じになる方も多いかと思いますが伝統文学は息の長い世界です。正岡子規が『歌よみに与ふる書』で短歌革新に乗り出したのは明治31年1898年のことでそれ以降短歌界は表現の疑似基盤をいわゆる〝万葉ぶり〟と『明星』派の自我意識表現に置いてきたわけですがその呪縛が完全に解けるまでに約百年かかったのです。口語短歌が次代の短歌表現基盤になると考えるのは早計です。短歌界には『角川短歌』のような中庸の姿勢もまた不可欠だと思います。
文学金魚のどこかのコンテンツで前衛には徒手空拳で新たな表現を追い求めるアヴァンギャルドと表現の原理的基層を探究しながら新たな表現を生み出すラディカリズムがあるとどなたかが書いておられました。確かにそうだと思います。しかし短歌のような伝統文学ではアヴァンギャルドはあり得ず前衛表現はラディカリズムにならざるを得ないと思います。そしてジャンルの原理を探究するためにはある程度保守的なテキスト群がある方が便利です。そのようなテキストとして『角川短歌』はうってつけだと感じます。僕一人の手で短歌文学の原理に迫れるとは思えませんがせめてヒントであろうと皆さんの思考のお役に立つ何かを見つけ出したいと思います。
高嶋秋穂
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■