数年前の芝中学の入学試験で、江國香織の『神さまのボート』から出題された。あんな小説を子供の入学試験、それも男子校の入試に出して、どうするんだ、と思った向きも多いだろう。もちろん出題は小説の部分にすぎず、全体がどういう話かは、そこからだけではわからないのだったが。
中学入試の国語は、ひと昔前の牧歌的な、いわゆる名作といったものでは間に合わなくなり、複雑な人間関係、男女関係への理解を前提とするものが増えてきている。たとえば、母一人子一人で育った男の子が、自分が慕っている先生と母親がデキていると知り、思い悩むとか。それこそ複雑な家庭で育った子にとって有利な出題だが、そういう苦労のある家庭から優先して合格からさせたいという配慮でもあるのか。
いずれにしても、より大人びた子供の方が、入学試験では有利ということになる。入学試験自体、大人が実施するものだから、大人の都合を盛り込んでいて不思議はない。が、もし世の中全体が、子供がすでに大人であることを当たり前のように期待している、ということは、大人が子供化しているということかもしれない。
それ自体はしかし、別に批判すべきことでもない。時代の流れで、人の成熟のあり様も変わってよい。成熟などというのは、誰もしたくてするわけではない。必要に迫られて、仕方なくというのが本当のところだ。なのに人は自分の変化を肯定したり、他人に差をつけたがったりする動物だから、成熟してしまえばそれを「よいこと」と思う。
短篇集『すいかの匂い』には、子供の頃に接した事物の記憶が、怖ろしいまでに鮮やかに、クリアに集約されている。言葉にならない、しようとも思わないような些細な、しかし決して忘れることのない記憶。そこへ立ち戻るとき、時は流れるのをやめ、永遠の相を覗かせる。
「弟」は、子供の頃、姉弟でやった葬式ごっこが語られる。ゴオゴオと燃える炎の役を弟がやって、死体は煙となってゆく。やがて夏に死んだ弟がきれいな煙となるところから、小説は始まっている。泣くことなど、何もない。夏に死んだのは祖母や母も同じで、「私もきっと夏に死ぬ」。
子供であれ大人であれ、この小説の「きれいさ」を感じ取るなら、それは「死」への透明でプレーンな志向から発生していると知るべきだろう。すなわちそれは社会的成長なり、成熟なりを拒否することだ。社会的存在になろうとなるまいと、死は訪れる。とりわけ子供は死に親和性があり、それを受け入れれば、すでにもはや成熟などする必要はない。
江國香織の作品が魅力的なのは、それが究極のアンチ・ビルディングスロマンだからだ。人も物も、すでにそこにあるようにしてある。永遠に。何にもなる必要はなく、何も失うものなどない。
それは本当に心静まる光景だ。幸福な子供時代、などというが、それは本当は今も続いているのではないか、と思わせる。これから中学生になろうという子供もまた、いったい何にさせたいのかと、子供時代を早々に喪失させる中学入試の席を立ち、帰ってきてしまいかねないほどに。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■