池田小学校の事件をきっかけに書かれたという表題作を始め、「回復」してゆく人々が描かれている。石田衣良の、しかし最も優れた手腕は状況の設定と説明、つまりは物語の始まるところにある。「回復」以前に、いわば「底」にある状態の人間の描写に力があって、よく読者を惹きつける。
そして描かれている「底」にいるのが、群像である場合も多い。人々は集っても、いや集っているからこそ「底」にいる。その様子を上から見下ろす視点は、作家の特権だ。
そこで作家は、登場人物たちに同情心を持たない。突き放したスタンスでいることは、作家を最大限に自由にする。するとそのぶん、登場人物たちも生気を放つし、リアリティを獲得する。
しかしながら「回復」に向かうときに、どの人々もしごくあっさりと救われる。それはあっけないほどで、「底」にいた人間たちの描写の鮮やかさがすべて霧散してしまうほどだ。
それはあたかも、それまでの登場人物たちへの冷たさを回収しようとするかのようでもある。では、それほどまでに作家は心温かく、シンパシーに満ちているのか。各短編の冒頭部分の描写の的確さは純粋に技術的なものなのか。むしろそこに作家の情熱があるように読めるのは、錯覚なのか。
表題作「約束」では、自分を守って死んだ同級生への思いから、主人公の少年は精神のバランスを崩す。自分よりずっと優れた友人を死なせた罪悪感は深いが、もちろんその責は本来、犯人である通り魔が負うべきものだ。それでも人は勝手に重荷を背負う。死んだ同級生と主人公の親たちもまた、「回復」を要するほどに傷ついている。
主人公は死んだ同級生を崇拝しており、その同級生を失ったことによる痛手にばかり注意を向けてしまうが、「崇拝」していたことの不健康、もしくは優劣の残酷さというものを見落としてしまうのはどうだろう。彼らはごく普通の仲良しでもよかったはずだし、むしろ自分を崇拝して慕い、追いかけて歩いていた友人が自分をかばって死んだ、という方が、その後の主人公の苦しみにストレートに共感できないか。
主人公の少年が見たと思っている、死んだ同級生の姿、彼が自分にかけてくれた言葉は、もちろん少年自身が少年に示したものだろう。「回復」するために。死んだ父親から電話がかかってくるという「天国のベル」はそれ以上に不思議な出来事ではあるが、これにも何か裏があって、追い詰められた家族の共同幻想と見ることもできる。そして少なくとも、その方が面白い。
しかし石田衣良は、そのような「面白い」展開の可能性を匂わせることをしない。確かに、わかりやすい「美談」に留まることで多くの読者は安心し、中学入試問題などは作成しやすくなる。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■