中学入試に頻出とまではいかないが、必読書の一つである。というのも、類似の本が見当たらない。いや自然を礼賛したり、自然に囲まれた少年時代を懐かしむという類いの作品はあるのだが、ここまで徹底した意識で書かれたものはない。
たいていの自然礼賛の書物では、それが「豊かな人間性を育む」ための糧であると位置付けられていたり、あるいはせいぜい人間社会からの一時的な逃避であったりするにすぎない。が、『少年記』においてははっきりと、自然 > 人間なのである。
戦後、復員して大勢が戻ってきた村で、「人間が多いなんて、ひとつもいいことはない」と、少年はきっぱり思う。通常の児童向け書籍なら、「 ~ と思っていた主人公だったが、~ をきっかけに考えが変化した」などというビルディングス・ロマン的な文脈をよしとし、その変化の部分が入試問題になるものだ。
しかし『少年記』では、そんなことはない。少年の意識は別にさっぱり成長もせず、人間関係に拘泥することに意味など見出さない。水の温かな九州の川に一日浸かって海老を捕り、山ではメジロを追うよりよいことなど、この世にないのだ。それは子供のままでいるのと同時に、成長する必要もない老成した精神にも似ている。現に少年は、いろんな捕獲を教えてくれる老人と相性がよい。
そこで出てくる人間たちは自然の一部である。余分な「人間性」などこそげ落とした有り様は、やはり余分なところのない文章で綴られる。
年かさの少年たちは当たり前のように、幼い少年たちを引率する。川で沈んでる奴がいないか、目を光らせている。必ず一人や二人、無言で沈んでゆく奴がいる。つかんで引き上げてやるのだが、ちょっと目を離すと、またなぜか声も上げずに黙って沈んでゆく。ここのくだりは読んでいる方がつい大声で笑ってしまう。
この時分、子供らは社会化された人間の卵などでなく、動物であるかどうかすら定かでない、文字通り自然の一部であった。ともすると自然に帰りたがっていて、それは社会的な死というものではなかった。
人の死とは本来、そういうものではなかったか。死に対していちいち責任の所在を求めるのは、人が誰かの所有物になっているからだろう。誰かの所有物を損傷したとして、賠償と責めを負う先が定まらなくてはならないのだ。
社会化されることを成長と呼ぶなら、それを拒否する者がまれにいたとしてもおかしくはない。子供であって老成している、その姿がいわゆる「教育的」なものかどうか知らないが、人間の本来の有り様を示唆することは確かだろう。
著者の野田知佑氏は、当サイト文学金魚の第一回フロント・インタビューに登場されている。併せて再読をお勧めする。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■