江國香織はもともと児童文学からデビューした作家だ。だから児童文学的なものに回帰してゆくのは、不思議でも何でもない。けれども回帰と言っても、何だかずいぶんと違うものになっている。雰囲気とか字面とかは、まさしく児童文学なのだけれど。
『ぼくの小鳥ちゃん』は、窓から「ぼく」の部屋へ飛び込んできた「小鳥ちゃん」との何ということのない日常の物語だ。「ぼく」にはガールフレンドがいて、毎週末には部屋へやってくる。
わがままでコケティッシュな小鳥ちゃんはもちろん、女性の比喩としても読める。とすれば、これは三角関係の物語ではあるが、そこはかとない幸福感と寂しさが同居しているのだ。
ガールフレンドは、小鳥ちゃんのことをライバル視するようなことはない。最初に会ったときに「かわいい」と言った以外、直接の言及はなく、特に関心も示さない。小鳥ちゃんはあくまで「ぼくの」小鳥ちゃんなのだ。ただ、彼女は小鳥ちゃんの寝室用にバスケットを譲ってくれたり、中に敷く布団をこしらえてくれたりと親切ではある。
小鳥ちゃんは、二人が二人だけで、自分ができないことをして楽しそうにしていると機嫌が悪い。「ぼく」がガールフレンドの悪口を言いかけると、聞きたそうではある。とはいえ、彼女に対して激しい悪感情を抱いている様子でもない。小鳥ちゃんの関心は、基本的には自分と「ぼく」との関係に終始している。あくまで「ぼくの小鳥ちゃん」なのである。
近代的な物語を立ち上げる基礎は、三角関係にある。そこでの葛藤のプロセスから、物語構造が構築されてゆくのが定石なのだ。児童文学であれ、たとえば子供に読解を手ほどきするなら、主要な登場人物は誰と誰か、それぞれの人物間の関係性を捉えるように指導するだろう。
主要な登場人物が恋愛関係、もしくは恋に似た関係にある三者しかいない『ぼくの小鳥ちゃん』は、たいへんベーシックな物語構造を持っていて、だから本来なら読解の基本的な方法論がぴたりと決まるはずである。が、この三者の関係性、特に小鳥ちゃんとガールフレンドの関係性はぎりぎりまで削ぎ落とされている。したがってこの物語は、サスペンサブルな出来事や、対立関係が激化して発展してゆくプロットを欠落させるしかなくなっている。
唯一、サスペンサブル?なことと言えば、小鳥ちゃんのよそでの所業がちょっぴり明らかになり、「ぼく」がそれに傷つくといったくだりぐらいである。しかしそれも結局、小鳥ちゃんは「ぼくの小鳥ちゃん」であるという確認とともに過ぎ去ってしまう。
人と人との関係は、対面する相手との関係だけで完結し、相手と他の人との関係はまた別の世界のことだ、という認識は、ある面では子供っぽい。全体や裏の面を把握する力のない子供の、あの子供時代の、非常に幸福な世界認識の方法だ。が、そこには同時に、小鳥ちゃんが小鳥でしかないことへの諦めともつかぬ、ちょっと寂しく悟ったような透明な諦念がふくまれている。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■