「赤毛のアン」が中学の入試問題になっているとは、ちょっとイメージできなかった。日本の名作は出尽くして、新作だと特定のものが出題される傾向があり、その結果、古典の翻訳ものが出ることが多くなったという。しかしそれは子供にとっては、なかなかの難物ではないか。
入試問題として難問になるかどうかはともかく、海外の物語から一部の文章を切り取ったものを、決められた時間内で読まされるというのは、ちょっと嬉しくない。あくまで自分だったら、という感想だが。
翻訳ものの物語自体は、読んで楽しいものが多い。現実から逃れるという意味では、土着的で日常生活の延長のような日本の児童文学よりもいい。が、もし翻訳ものが現実から異界へと逃れるという楽しみでなく、現実世界での成長を促すものとして供給されると、ずいぶんと説教臭くなってしまう。それはつまり、洋の東西に共通の教訓を示す、バリバリの児童文学であるより他はなくなるからだろう。
異界へ逃れるには手続きが要る。導入部分を経て、少しずつその世界へ入り込んでゆくのだ。だから部分を切り取った入試問題で、そういうところを読まされるのは、かなり居心地悪いと思う。説教っぽい部分ならと言えば、あまりにわっかりやすーい説教になるから、これも鼻白む。
こう考えると、普通の日本の児童文学は、共通の社会と文化を前提として日本語で書かれたものが読まれるから、相当に微妙なことを伝えられるのだ、とわかる。それはもう「児童」を取り払った「文学」そのものに近くなる。
『赤毛のアン』は、過度に説教臭い物語というわけではなく、しかし読者を異界へと誘う物語というのでもない。むしろ異界へと誘われたがりの、空想好きなおしゃべりの女の子の話で、ある意味で読者は妙な位置に立たされる。アンを引き取った老兄妹の兄、マシューと同様、彼女の空想に付き合い、おしゃべりを聞き、彼女を愛さなくてはならなくなる。
実際には、アンの空想は取り立てて面白くはなく、そういったおしゃべりは人を辟易させるに十分だろう。そしてアンは頑張り屋でもあって、そのことで褒められこそすれ、さほど愛されるような無邪気な女の子ではない。ただ、愛されることを強く求めてはいる。アンの「頑張り」も、おそらくその欲望から生まれるものだろうし、孤児院そだちというのは納得のいく設定ではある。
『赤毛のアン』は成長物語というより、立身出世物語である。最初の空想癖と、それによって見えていた美しい世界はどこへ消えたのか、それをたいして惜しみもせず、悲しみもないのは、立身出世の夢がそれと同等の輝きを持ち得たからに他ならない。
それは時代である。1908(明治41)年の作で、世界は今のように狭くはなかった。しかし同時に『赤毛のアン』は、不思議なほど古さを感じさせない。そこは最大の魅力で、カナダのプリンスエドワード島の自然、子供の想像力、女性の(せいぜい、学校を首席で出て教師になるという程度の)立身出世の夢、反発しあっていた幼なじみとの恋、といったものには、昔も今も変わる要素などないということだ。
金井純
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