児童文学は、多かれ少なかれ成長物語 = ビィルディングス・ロマンである。その定義は、現象的には正しい。物語の最初と最後で、主人公がどのように変化し、どれだけ成長しているか。それを見て取ることがすなわちテーマの把握そのものであって、中学受験の国語においてもコツであるはずだ。
しかしながら各物語によって、その成長の勾配は異なる。急激に成長する物語は、むしろ「成功物語」とでも呼ぶべきものだ。『赤毛のアン』とか。そこでは社会的に認知される存在になること = 成長なのである。究極的には『ディヴィッド・コパフィールド』といった、児童文学の枠を超えた「立身出世物語」となる。
一方で、この成長の勾配が限りなく0に近いものもある。『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』という世紀の傑作である。聖書の次に発行部数が多いそうで、聖書は無料で配っているものだから、古今東西における究極のベストセラーだ。それがナンセンスによって成長を無化した児童文学であった、というのは示唆に富む。
E.L.カニグズバーグは、基本的にはやはり、少年少女が社会化されてゆくというテーマの作家である。『魔女ジェニファーとわたし』は、その中でもなかなか読ませるものがあった。最後には「まともな、正気の女の子」になってしまうとはいえ、自分を魔女と思い込んでいる少女の言動は、少なくとも小説になり得る。
作家たるもの、成長物語を書くという口実のもとにでも、子供の奇態な様子を描きたいと思うものではないか。子供がもし、単に大人になるべきもの、その「原料」にすぎないとすれば、これほど詰まらないことはない。
『ティーパーティの謎』は日本の児童文学のひとつのよりどころである岩波少年文庫に収録されている。それによって名が知られた作品である。しかし作家が何を描きたかったのかは、『魔女ジェニファーとわたし』以上によくわからない。
様々な家庭環境の子供たちが、理解ある教師の指導のもとでチームを組み、クイズ大会で優勝するという物語だ。彼らがいかにして親友になったのか、というテーマが設定されているが、本質的な意味で、何が響き合って親友になったのかは不明だ。クイズ大会のチームというのは口実で、様々な環境にいる子供たちを描きたかったのかもしれないが、その家庭環境というのにも、それほど劇的な差異があるといった印象はない。海亀の卵を保護する運動をしている家庭だとか、そういう表層的なバリエーションだ。
クイズ大会で優勝するというのは、まあ一種の「成功」だが、物語のカタルシスとして「成功」が必要になるほどの追い詰め方が足りない。技術論だが。けれどもたぶん、たいして追い詰められるわけでもなく、何となく大人になってゆく子供たちを描く、というのが E.L.カニグズバーグという作家の持ち味なのだろう。そのリアリティと、個々の子供たちのエピソードは確かに、中学入試問題に出題されて違和感はないが。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■