ガキの使い 絶対に笑ってはいけない熱血教師24時
日本テレビ系 大晦日 18:30~00:30
ダウンタウンの浜田雅功と松本人志、ココリコの遠藤章造と田中直樹、それに最近月亭八方に入門して芸名を月亭方正と改めた山崎邦正が、様々な職業に扮して笑いのトラップに耐える(笑ったらお尻を叩かれるという罰則付き)バラエティ番組である。紅白歌合戦の裏番組として民法各局は知恵を絞ってきたが、その中で『絶対に笑ってはいけない』シリーズだけが安定した視聴率を取れる番組に育ったようだ。今年で7回目だそうである。
企画は松本人志で、この人のお笑いのセンスは抜群に優れている。テレビ時代に入ってからしばらくしてお笑いの質は変わった。練り上げられた話芸で笑いを誘う漫才や落語の時代は終わり、ハプニングと芸人の反射神経が笑いの主流になったのである。今の素人イジリの代名詞的存在は明石家さんまだが、最初にそれをやり出したのは初代・林屋三平だったと思う。ハプニングを積極的に笑いに取り入れたのは『シャボン玉ホリデー』のクレージー・キャッツあたりだろう。今の笑いの主流も彼らとさほど変わりない。ただより先鋭化されている。
松本人志はある時期からテレビでよく笑うようになった。その頃から番組の企画者に彼の名前がクレジットされるようになった。人を笑わせるのが彼の仕事だが、まず自分が笑いたい、思わず笑ってしまうものはなにかを探っているようだった。松本はコード的な締め付けが厳しいテレビ業界で様々な実験的試みを行ったが、『すべらない話』や『○○な話』、それに大晦日の『笑ってはいけない』シリーズがその最も成功した企画だろう。
要は人の〝意表をつくこと〟が笑いの基本である。しかし計算された笑いはテレビでは限界がある。同じ笑いを二度繰り返してはいけないのである(漫才ブームの頃までは同じネタを繰り返し放送していたが、今ではほとんど放送コードのように排除されている)。笑いの構造は同じでも状況や人を変え、その都度反射神経的に新しい笑いを作り出していかなければならない。お笑いのプロが思わず笑ってしまうネタが素人に受けないはずがない。松本の企画で成功した番組には、『頼むから俺を笑わせてくれ』といった切迫した厳しさがある。
『笑ってはいけない』ではお笑いの素人である有名俳優が起用されているが、プロのお笑いの人選に松本の意図が現れているだろう。ますだおかだの岡田圭右やジミー大西は、ここ数年レギュラーとして登場している。岡田圭右の笑いは爆笑問題の太田光と同様、『みんなが笑ってくれないと僕困る』といった強引なものだが、それが決して知的な笑いに流れず、あほらしいほどワンパターンのギャグに終始するところが松本の笑いの琴線を揺さぶるのだろうと思う。ジミー大西は笑いのプロだが、同業者はもちろん、彼自身にも笑いの質や方向性を計算できないという特技がある。『笑ってはいけない』で一人でコーナーを担当するのはジミー大西だけである。彼は野放しにしておく方が面白いのだ。そこにお笑いに対する松本の優れた見識があるだろう。
『笑ってはいけない』シリーズは、今では特権的なお笑い番組のようだ。テレビ局には食べ物を粗末にしてはいけない、生き物を虐待してはいけない、過激な下ネタは控えるという放送コードがあるが、この番組ではそれがギリギリまで緩和されている。一つ一つのネタは見慣れたものでも、松本人志を中心とする笑いのプロを笑わせるという一貫した姿勢が、それぞれの笑いを先鋭にしている。話芸だけでなく、肉体の切れも要求されるのだ。
笑いは話芸の印象があるが、肉体の切れがなくなれば誰も笑わなくなる。ワイドショーでいかりや長介の葬儀に参列した加藤茶、高木ブー、中本工事、志村けんを見たが、正直なところもう彼らでは笑えないと思った。長年二枚目や美女を演じてきた俳優の顔が、年を取るとどこかコミカルに見えてくるのとは逆に、なまじ人を笑わせてきたコメディアンの顔は同年代の男女より厳しく見えるところがある。森繁久彌を初めとして、年取ったコメディアンが性格俳優に転身していく理由がここにある。
松本人志は『笑ってはいけない』シリーズはそろそろ終わりにしたいと言っているようだが、あり得ることだと思う。お笑いはパターン化しなければ安定した笑いを取れないが、パターン化し過ぎればとたんにつまらなくなる難しいジャンルだ。『すべらない話』や『笑ってはいけない』シリーズはギリギリのところにいる。視聴者は松本が作り出した、プロのお笑いの意表をついて笑わせるというパターンに慣れ始めている。また松本の試行錯誤はすでに始まっているようだ。
『松本人志のコント MHK』や映画制作がその流れだろう。お笑いはオーソドックスな構造を持っていて、テレビのバラエティではハプニングと反射神経が笑いの素となるが、コントや映画では笑いを周到に計算しなければならない。いわば理詰めの笑いであり、どうオチをつけるのかが最大のポイントになる。『松本人志のコント MHK』の制作ドキュメンタリーを見ると、松本は最後のオチだけをブランクにして撮影に臨んだようだ。この〝ブランク〟に詰め込めるのは笑いだけではない。悲しみでも涙でも怒りでも良い。松本はきっと、ここからまた新しい笑いを見つけ出すだろうと思う。
田山了一
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