とりとめのない日々。子供時代というのは、こういったことの積み重ねだった、と思い出させる短編集である。その意味で、読後感は必ずしもよくはない。
「読後感がよくない」というのは、よい意味での「よくない」である(???)。つまり児童書みたいなものは、なんかどうしてもサワヤカに終わりがちだ。それって出版社の要請なのか、と思うぐらい。ということは、それが読者の要請なのか。要請する読者とは子供なのか、大人なのか。
暗い物語は読みたくない、というのはわかる。特に子供が餓死する話なんかは。(「火垂るの墓」はイギリスのアンケート「観ると落ち込む映画」でベストテン入りを果たしたそうで、万国共通に同感らしい。)
確かに、あまりに劇的な悲劇はタイミングを誤って与えると、子供がネガティブになる可能性がある。(広島にヤクザが多いのは、小学校で原爆記念館に連れて行くからだ、とある広島出身のヤクザさんが語っていたのを読んだ。真偽のほどはわからないが。)
だけど子供もまた人間の一種であり、人間である以上はとりとめのない日常を生きている。そこに耐えることが、長い年月の成長を経て「観念」を生む。人間が人間になるのはこの「観念」があるためで、とりとめのない日常に耐える「観念」を獲得できなければ、獣と化すだけだ。
『天のシーソー』が真に確信をもって、そのとりとめのなさを描いている、というわけではない。(もしそうなら、出版社が何と言おうとマスターピースだ。)それなりのオチはついている。が、それが何となくモヤっとしている。いい意味で。
短編には、しばしば妹が出てくる。ずるくて生意気で、癪にさわる妹だ。妹というものは、たいていそんなものだろう。「毛ガニ」ではその妹が、送られてきた毛ガニに名前を付けてしまい、主人公の少女は食べずに海に返す決心をする。妹は体調を崩し、その熱い息に「なんの約束もなしにこの世に生まれたことが、たよりなくてしかたがない」感覚を思い出すのだ。毛ガニは結局、バス停で出会った長距離トラックのおねえさんが頼もしく引き受けてくれる。
病気の治った妹は、あいかわらず生意気だ。そこへ葉書が届く。差出人は「カニ」で住所は「北の海の底」。ママの字なら見覚えがあるだろうから、どうやらあの長距離トラックのおねえさんらしい。
いい話である。が、それだけなら単なるきれいごとの、いかにもつまらない児童文学にすぎない。たぶん長距離トラックのおねえさんは一緒にいた男と、美味しく毛ガニを食ったろう。少なくとも、そう思えるような歳に、いずれは二人もなる。
意識してかどうか、微妙である。それも狙ったような微妙さでもない。ピタッとサワヤカに決める手管が欠けているだけなのかもしれない。ただ、読者としては主人公の呟く「生まれてきたことの頼りなさ」を多とするしかない。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■