
「初転法輪」のガンダーラ仏残闕
縦六・七×横六・七×厚さ一・九センチ(いずれも最大値)
前回はわたくしが持っている骨董ではなく毎日オークションさんのオークションカタログの紹介でしたが、長次郎茶碗が九億二千万円で落札されたえらい景気のいい回でした。今回は通常どおりの『言葉と骨董』。「初転法輪」のガンダーラ仏残闕であります。
ガンダーラ仏はおおむね紀元一世紀から三世紀くらいに古代ガンダーラ地方(現パキスタン北部からアフガニスタン東部)で作られた石製の仏像の総称である。エジプトやギリシャ、中東の古美術はヨーロッパで人気でなかなか日本に優品が入ってこない。アフリカ美術はアメリカで人気だったりする。リッチな黒人系アメリカ人がコレクションしたりするので。その点ガンダーラ仏は数が多く、よほどの名品でなければ値段もこなれているのでたくさん日本に将来されている。
仏教発生の地、インドではその後ヒンドゥー教が盛んになり仏教は廃れてしまった。サンスクリット語(梵語)仏典を漢訳して仏教を広めた中国でも現在はそれほど盛んではない。東南アジアではタイ、カンボジア、ミャンマーなどが今も仏教国で極東日本もそう。日本では葬式仏教と揶揄されたりもするが多くの人が子どもの頃から慣れ親しんでいる仏教の影響は根強い。中東イスラーム世界やインドなどを旅行していると買物ひとつするにも「うー、めんどくせー」と感じることしばしばである。しかしタイやスリランカなどの仏教国に行くと安心する。人々が穏やかで「仏教国はええなぁ」と思ったりするのである。まあどの国に行ってもいい人も悪い人もいるわけですが。
さて、今回の「初転法輪」は縦六・七×横六・七×厚さ一・九センチ(いずれも最大値)の手の平サイズの小品である。しかも残闕。このくらいのガンダーラ仏なら数千円で買えたりする。骨董屋の説明は「ガンダーラ仏のカケラ、以上」だったが買って帰り少し調べたらすぐに「初転法輪」だとわかった。まずは「初転法輪」の全体像と「とはなにか?」ですね。

【参考図版】仏伝「初転法輪」
制作地:パキスタン、ガンダーラ クシャーン朝・二~三世紀 片岩 一面 東京国立博物館蔵
東京国立博物館に全体像がわかる仏伝「初転法輪」が所蔵されている。釈尊は悟りを得てもなかなか人々に説法しなかったが、初めて説法した記念すべき場面が彫られている。右側の柱のそばに立つひときわ大きな人物が釈尊。小さく彫られた剃髪し合掌する五人は釈尊の最初の弟子の比丘たち。中央の柱には車輪のような輪っかが三つ乗っている。これは法輪で仏教の三宝である釈尊、法(釈尊が説いた真理)、僧(釈尊の教えを受け継ぐ弟子たち)の象徴である。いわゆる「仏法僧」ですね。
初期のガンダーラ仏は釈尊のお姿そのものは畏れ多いので法輪や仏足石などで表していた。それがAD一世紀からに二世紀になると人間の姿で表現するようになった。初めて釈尊を人間の姿で描いたのはイラン系民族のクシャーン朝だと言われる。東博本「初転法輪」はクシャーン朝の作だが釈尊と法輪の両方がある。人間の姿で表すようになっても平行して法輪を描く時代があったのですな。
わずか十年ほどだがアレクサンドロス大王の東方遠征(BC三三四~三二三)により古代文明世界は大きく変わった。エジプトからインドに至る広大なエリアが統一されそれにともないエジプト・ギリシャ・ローマ・ペルシャ・インド文明などが混交した。初期ガンダーラ仏はクシャーン朝作なので人物の顔立ちは欧米風である。鼻が高く彫りが深い(釈尊がイラン系ということではない)。柱などの形はギリシャ・ローマ風だ。天使やヘラクレスが彫られたガンダーラ仏もある。それが仏教が東進するとお顔が東洋人になる。中国に仏教が伝わったのは後漢時代(AD二世紀)だが五、六世紀の南北朝時代に最初の興隆期を迎えた。この頃には釈尊のお顔はすっかり東洋人である。

【参考図版】「釈迦菩薩立像」
出土地:パキスタン ガンダーラ クシャーン朝・二~三世紀 片岩 総高一三八×像高一一四センチ 一軀 東京国立博物館蔵
キリスト教では受胎告知や洗礼、最後の晩餐、十字架磔刑、復活、昇天などの場面が絵や彫刻で好んで表現される。仏教も同様で摩耶夫人が白い象が身体に入る夢を見て懐妊を知る場面(托胎霊夢)から、釈尊が沙羅双樹の下で弟子たちに見守られながら横臥して入滅する場面(涅槃)まで盛んに描かれた。「初転法輪」もその一つ。
僕が買った「初転法輪」は全体が残っていたとしても小さいので、舎利塔(ストゥーパ、釈尊の遺骨を納めた仏塔。日本ではそれが転じて卒塔婆になった)の基壇を飾った仏伝図の一部だろう。文字が読めない人でも彫刻を見れば釈尊の生涯と事蹟がわかったのである。柱と人物の大きさからいって残っている人物は釈尊だろう。
釈尊の生没年は諸説ある。インド哲学の碩学・中村元先生はBC四六六年生まれ、三八六年没、享年八十歲としておられる。これだけ古いと釈尊は実在しなかったのではないかという説もある。しかしモーセやキリストと同様、実在の突出した宗教者だったはずだ。
どの宗教も隅々まで教義を理解するのは難しい。ただ仏教の難しさは独特だ。キリスト教やイスラーム教と同様に仏教も釈尊という開祖から始まった。しかしユダヤ・キリスト・イスラームのセム一神教が唯一無二の神の言葉である『旧約聖書』『新約聖書』『クルアーン』の聖典を持っているのに対し仏教にはない。釈尊は修行者でありエリヤやキリスト、ムハンマドのような神の言葉を預り人々に伝えた預言者ではないのである。経典は釈尊入滅後に弟子たちがその教えをまとめたものだ。入滅直後のものもあれば数百年後に書かれた経典もある。
セム一神教はたとえ分派に枝分かれしていっても聖典から演繹的にその教義を理解できる。それに対し仏教では釈尊の教えがじょじょに変化していった。今日日本人が漠然とであれ信仰しているのは大乗仏教やその分派である密教、禅宗などだが釈尊の教えとはかなり違う。そのため釈尊在世時代の仏教は原始仏教や初期仏教、あるいは上座仏教と呼ばれる。
釈尊の時代、インド大陸で信仰されていたのはヴェーダの宗教だった(バラモン教ともいう)。起源は恐ろしく古く紀元前一五〇〇年くらいからあったようだ。「輪廻転生」と「解脱」が教義の柱だった。輪廻転生は冬になると植物が種子を残して枯れ、春になると芽吹いて花を咲かせるといった農耕社会が生み出した循環思想である。
ヴェーダの宗教は人間も輪廻転生すると考えたが、人間の輪廻転生は永遠に繰り返される苦しみであると捉えた。厭うべき老病死が無限に繰り返されるからである。そこから逃れる道が解脱。解脱するためには善だけでなく否応なく悪も為してしまう現世の生活を捨て去らなければならない。「出家」である。飽くことなく輪廻転生が繰り返されるのが現世の「此岸」で、出家してその苦しみから解脱した境地が「彼岸(涅槃)」と呼ばれる。
ただ釈尊の時代、ヴェーダの宗教は社会の隅々にまで浸透した現世宗教になっていた。最高司祭はバラモンだが彼らは彼岸に赴くためには常日頃の祭祀が必須だと人々に説いた。祭祀を行う際は惜しみない寄進が必要である。また理想は解脱だが仕事をして子孫を残し祭祀にいそしむのが人間の義務である。でなければ人間社会を保てない。その義務を果たして老齢になり死が近づいた者だけに出家が許される。そう説くことでバラモンたちは自らの社会的地位を盤石のものにしていた。
ヴェーダの宗教から現れた人なので釈尊もまた輪廻転生からの解脱を目指した。ただし釈尊は老齢になる前に出家し解脱した。それは当時の宗教界のトップに立つバラモンたちの教えに反することだった。しかしヴェーダの宗教の理想でもあった。
よく知られているように釈尊は釈迦族(サキヤ族)という王族の長男だった。釈迦族の聖者なのでサキヤムニと呼ばれ、中国で音写漢訳されて釈迦牟尼(釈尊)の漢語になった。王子なので子孫(後継者)を残さねばならない。釈尊は十六歲で結婚して男子をもうけると二十九歲の青年期に出家した。ただしすぐに解脱できたわけではない。
釈尊は最初禅定(瞑想・ヨーガ)で解脱を得ようとした。しかしそれでは得られず息を止める止息と断食の苦行に六年間励んだ。それでも解脱できなかった釈尊は再び禅定に戻り遂に解脱してブッダとなった。釈尊三十五歲のときのことである。ブッダは「目覚めた人」を指す言葉である。釈尊以外にもブッダになった人はいるが「仏陀」と音写漢訳されると釈尊その人を指すことが多くなった。
ただブッダになった(悟りを得た)釈尊は人々に説法するのをためらった。しかしついに説教を始めた記念すべき場面が「初転法輪」である。いっしょに描かれた五人の比丘は苦行こそが解脱に至る道と考える出家修行者たちだった。そのため苦行を棄て禅定に戻った釈尊を軽蔑していた。が、釈尊の説法を聞いて帰依しその教えを受け継ぎ広める最初の僧侶集団になったのだった。
三十五歲で解脱し八十歲で入滅したので、釈尊は実に四十五年間も人々に教えを説いたことになる。釈尊の教えは徐々に広がり在世中に大きな教団になった。有名なズダッタ(須達長者)のジェータ林(祇園精舎)の寄進など有力者の庇護も得て経済基盤も整った。ただ世を捨てた出家者は本来は一所に留まることのできない漂泊者である。また人々の布施によって与えられるわずかな食事のみで生きなければならない。
釈尊は生涯旅をしたが最後の旅の途中で病に倒れた。激しい下痢に襲われたと伝えられる。やや回復したがクシナーラー(拘尸那城)の沙羅双樹の元で頭を北に向け右脇腹を下にして頰杖をついて横たわり入滅した。生きたまま解脱した聖者でありながら生身の修行者として亡くなったのである。実際釈尊の生涯は実に人間臭い。そこが仏教の面白いところ、と言うと不敬になるかもしれないが仏教最大の特徴である。
釈尊の仏教(原始仏教)は世捨ての出家集団が母胎でひたすらに解脱を求めた。しかし釈尊入滅後の四百年ほどで仏教は大きく変わった。AD一世紀頃になると出家者だけでなく在家信者を含むすべての人々の救済を目指すようになった。大乗仏教である。仏教という「大きな乗り物」に乗った衆生すべての救済を目指すのである。仏教に限らず信者が増えれば開かれた宗教になるのは当然だ。またそれは釈尊在世時から仏教が包含していた展開だった。
教団が大きくなるにつれさまざまな問題が起こったが釈尊はそれらに目をつぶった。寄進があれば有難く受け取ってもいる。教団の緩い雰囲気を批判していとこのデーヴァダッタ(提婆達多)はより厳しい修行の宗派を始めたと言われる。ただそれを大教団の教祖になった釈尊の妥協的堕落と捉えるのは早計のようだ。
釈尊は解脱後しばらく説法しなかったが、しなかったというよりできなかったのである。それは解脱が不立文字――言葉では決して伝えられない秘儀であることを示している。実際、釈尊は解脱の境地を語りそのための修養方法を説いたが解脱方法自体は明らかにしていない。また禅定(瞑想)→苦行→禅定を経て解脱した。禅定も苦行も必須である。しかし二度目の禅定は最初の禅定とは違う。最初と二度目の禅定ではそこで得られた認識(と言うしかないでしょうね)の質が異なるのである。


周知のように仏教は顕教と密教に大別される。「顕」からわかるように顕教は「明らかな教え」の意味で釈尊が言葉で説いた教えを中心に、すべての人々(衆生)の救済(解脱・悟り)を目指す仏教である。密教は「密」の文字が示す通り「秘密の教え」で厳しい修行(苦行)に励んだ者が救済を得られると説く。AD七~八世紀になって密教が成立しそれまでの大乗仏教の流れが顕教と呼ばれるようになったわけだが、密教は日々お経を唱え可能な限り修養すれば救われると説く平易な顕教への批判だと捉えることができる。密教は釈尊後半の「苦行→禅定」の道筋を重視した。
ただ原始仏教がひたすら出家者の解脱を求めたのに対し、釈尊時代とは比較にならないほど大きな教団になった顕教・密教はより多くの人々の救済を目的としている。そのため解脱した境地(彼岸・涅槃)におわす様々な仏様が生まれわかりやすい信仰の対象になった。顕教では釈尊その人が釈迦如来となり、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩など様々な仏様(仏像)が生み出された。密教の最高仏は宇宙の真理そのものである大日如来で、釈迦如来や阿弥陀如来などの仏様は大日如来の化身とされる。人々は救済を求めて仏様を拝み解脱を願って仏様にすがるようになった。仏様の存在を認めない禅宗もある。密教と同様に厳しい修行によって悟りに至る(解脱する)わけだがそこに超越的仏は介在しない。しかし悟り(解脱)が言葉では説明できない飛躍であるのは釈尊と同じである。
僕は自分の心性は禅宗に近いと思っている。神仏の存在は認めない、というか信じきれないがもし悟り(解脱)というものがあるとすれば、それは禅が説くように世界を無の一如(無意味、無秩序だが倫理や善意なども生み出される渾沌としたエネルギー総体)として捉えそれを裸眼で冷たく見つめるような心性だと思う。禅宗はまた、もし悟りの境地に至っても生きた人間はそこに安住できないと説く。無という世界の真理(のようなもの)を見たら現世に帰ってこなければならない。それが悟りを得るということである。では悟りを得たら人はどう変わるのか。現実世界の諸相が少しだけ透徹して認識できるようになるだけである。
一方で僕の実家は浄土真宗で毎月菩提寺のお坊さんが読経をあげにやってくる。浄土真宗は悪人正機説を唱えひたすら阿弥陀如来に帰依すれば万人が救われるという専修念仏を説いた親鸞聖人が開祖だ。最も平易な顕教の一つである。ただ親鸞は悟り(救済)に至る最終的な機微について「この上は念仏をとりて信じたてまつらんともまた棄てんとも面々の御計なり」と語った。悟りに至る飛躍は人それぞれ、そこに至っては仏を信じようと信じまいと同じこと、という意味である。
仏教は様々な宗派に分かれていったがすべての宗派が釈尊の生々しい禅定(瞑想)→苦行→禅定(悟り)のいずれかの事蹟に基づいている。もし仏のおわす審級(彼岸・涅槃)に到達できたとしてもその機微は不可知(言葉では説明できない)。その意味で仏教の教えは徹底して現世的だ。それが人間の自我意識の苦悩を赤裸々に、愚かなまでに描く日本文学独自の私小説を生み出し、その逆に自我意識を棄て去ってひたすらに調和的かつ循環的世界観を表現(写生)する俳句を生み出している。究極を言えば仏教最大の特徴(秘儀)は釈尊が悟りを得てのち、それについて語ることをためらった初転法輪に表現されている。
骨董も様々で焼物ならキレイだねとかいい景色だねと言う程度で済む。しかし歴史的価値のあるモノや考古学的遺物はそうもいかない。パッと見「なにこれゴミじゃん」という雰囲気のモノもあるからである。
僕が買った「初転法輪」は残闕でしかもえらく小さい。そのままだとなにがなんだかわからなくなりそうなので下の方をドリルで削って穴を開け金属棒を差し込み、そのあたりにあった木材を切って台座にした。久しぶりの夏休みの工作ですな。底には「初転法輪」の由来を書いた。こんなちっぽけな残闕でもいずれ僕の手を離れ骨董市場に戻ってゆくわけですからね。モノがなにか分かれば多少は大事にされるんじゃないかな。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2026 / 08 / 17 16枚)
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