安井浩司新句集『烏律律』(うりつりつ)

発行 平成二十九年(二〇一七年)六月五日

定価 三千九百円(税抜)

発行所 沖積舎

 

 

 安井浩司氏の十七冊目の新句集『烏律律(うりつりつ)』が刊行された。『烏律律』は七章構成で、一〇六一句が収録されている(ⅠからⅥ章までが各一五三句で、Ⅶ章のみ一四三句)。もうだいぶ前から安井さんが自作について語るのは、句集「後記」だけになっているので、まず『烏律律』の「後記」をチェックしておきましょう。

 

 本書は、前著『宇宙開』(平成二十六年刊)を継ぐかたちで生まれたものである。前著をもって「句篇」(全)の終結を願望していたにも拘わらず、その後、わずか三年で姿を現わすこととなった。敢えて申せば、その〝烏律律〟としての無尽のポエトリーの湧出を如何ともしがたく、ここに自然の意のままに〝混沌〟の一巻を落掌する外はなかったことである。俳句形式の原理を君達に任せ、ただ湧くがままに在る外はないだろうと、今日の自分を信ずるだけだ。

(安井浩司『烏律律』「後記」)

 

 『汝と我』(昭和六十三年[一九八八年])を嚆矢として、『四大にあらず』『句篇』『山毛欅林と創造』『空なる芭蕉』『宇宙開』と六冊の句集を書き継ぎ、安井さんは二十七年をかけて「句篇」(全)を完成させた。「句篇」はエズラ・パウンドの長篇詩『詩篇(キャントーズ)』にヒントを得た俳句による長篇詩の試みである。ただ「後記」に『烏律律』は、「前著『宇宙開』を継ぐかたちで生まれたもの」だとあるように、「句篇」の完結は一応のものだったと言った方がいいのかもしれない。しかし継続の内にも変化は自ずから表れている。

 

 「句篇」連作はある抽象を指向している。『山毛欅林と創造』『空なる芭蕉』というタイトルが示唆しているように、それは無から有の創造(「空」からの「創造」)である。これも比喩的な言い方だが、創造の過程では『汝と我』や『四大にあらず』といった、対立や否定を乗り越えねばならなかった。しかし『宇宙開』は力強い肯定である。新たな宇宙を切り開いたのだという自負が宣言されている。『宇宙開』末尾は「消えるまで沙羅(シャーラ)を登りゆくや父」であり、迷いなく抽象の高みへと消えてゆく父性的存在の姿が描かれている。

 

 しかし新句集のタイトルは異質だ。『烏律律』の出典はわからないが、「混沌」を意味する漢語であるのは間違いない。また〝ウリツリツ〟という、軽味と滑稽味を感じさせる音もタイトルに採用された理由だろう。安井さんには「有耶無耶の関ふりむけば汝と我」があるが、『烏律律』は〝うやむや〟を強く感じさせる。パウンドはダンテ『神曲』をモデルにして『詩篇(キャントーズ)』を書き、百篇で完成するはずだったが百十七篇まで書き継いだ。同じことが安井さんにも起こっているのだと思う。作家は作品(連作)を完結させることができる。しかし一方で作家の表現欲求は、新たな未完を求めて作品として溢れ出すのである。

 

天上の村より落ちくる白鼠(Ⅲ)

ふるさとの草屋根天馬のひづめ跡(Ⅲ)

野狐が天理の教えに舞い居たり(Ⅴ)

浜荻や天語(あまこと)歌の聴こえつつ(Ⅴ)

高窓に天女の足裏見えはじむ(Ⅶ)

(安井浩司『烏律律』より ()内は章番号 以下同)

 

 天上的観念を表現した安井俳句である。ただ安井さんがランボーやマラルメのように、ひたすら神的至高観念を追い求めている詩人だとは言えない。「天上の村」から落ちてきたのは、かわいくもあり不気味でもある「白鼠」である。また「ふるさとの草屋根」に押されている「ひづめ跡」は確かに「天馬」のものだが、生々しく具体的である。「高窓」から見える「天女の足裏」は艶めかしい女のそれでもある。

 

綿雲の龍の排泄ただよえり(Ⅰ)

産小屋を爪立ち男神の覗きおり(Ⅳ)

尾を上げて人魚の尿か沖の春(Ⅳ)

 

 安井さんの描く天上界は、基本的にはなんら人間界と変わらない。龍は糞をし人魚は尿をする。「男神」は誘惑に負けて禁忌である「産小屋」を覗く。地上界(現実界)と天上界(観念世界)は地続きである。

 

 俳句はその発生以来、一貫して地上に存在する現実事物(言葉)の取り合わせを基本としてきた。その取り合わせの妙が俳句を滑稽味のある表現にし、和歌(短歌)は高尚な貴族の文学、俳諧(俳句)は下世話な庶民の文学という区分が生まれた。幕末月並俳句に代表されるように、俳句は意外な言葉の取り合わせによって作者の才気を競う〝お遊び〟になりがちなのだ。現代のテレビ番組等々でも、俳句は知的なお遊びの道具として使用されている。

 

 ただ近代以降の俳人たちが俳句を〝文学である〟とする時、取り合わせの妙(機知)以上の何かを想定しているのは言うまでもない。端的に言えばそれは高い〝観念〟である。もう少し具体的に言うと、何の変哲もない地上の事物を取り合わせることによって、天上に届くような観念を表現しようとする。芭蕉の「古池」の解釈ではしばしば幽玄や悟りが語られる。「古池」と「蛙」という下世話な言葉の取り合わせが天上的観念を生んでいるのである。ただこのベクトルは地上から天上への一方通行ではない。原理的には相互的なものである。天上的観念は地上(現実世界)への下降としても捉えることができる。

 

乾烏賊に空の盗賊踊り来て(Ⅱ)

緋鯉ども氷面の真裏も鏡にて(Ⅳ)

荒野井戸深く覗けば仰ぐ顔(Ⅴ)

鷹一つ天空はふと窓のよう(Ⅴ)

 

 安井俳句は観念的に見えるだろうが、その最も優れた表現は下世話で地上的である。盗賊は空からわざわざ「乾烏賊(ほしイカ)」を盗みにやって来る。「緋鯉ども氷面の真裏も鏡にて」の句は、地上と天上界は鏡像であることを示唆している。「荒野井戸」「鷹一つ」の句に表現されているように、異界へとつながる窓は地上のどこにでもある。

 

 俳句である以上、安井俳句もまた言葉の取り合わせを最も重要な技法としている。しかしその取り合わせは地上の事物(言葉)に限定されない。安井俳句は天上界の事物(言葉)――もう少し正確に言うと想像界のイメージをも自在に取り合わせている。ただこの「想像界のイメージ」は〝空想〟という意味ではない。

 

 心理学では人間の意識を「表層意識」と「深層意識」に分類する。そしてわたしたちは深層意識にほとんど無限の存在元型イメージを抱えている。その存在元型イメージが地上の事物と結びつき、一対一対応の現実事物になる。しかし「現実事物」は常にその内部(人間意識の内部)で深層意識と交流している。龍や天女は実在しないが、わたしたちは彫刻や絵画としてそれらを実在させることができる。少し難しい言い方になるが、現実事物との対応を持たない〝非即物的元型イメージ〟は言葉や物として存在可能なのだ。

 

 安井さんが俳句で、現実事物だけでなく非即物的元型イメージをも自在に取り合わせていることは、彼が人間精神を表層意識と深層意識の綜合として捉えていることを示している。人間意識が捉える現実事物は確かに絶対的(存在)に見える。しかし一皮剥くと現実事物は仮象であり、その根は無意識界深くにまで繋がっている。それは人間にとってすらどこに涯があるのかわからない広大な小宇宙である。安井さんはこの小宇宙を俳句文学の表現領域として〝新たに開いた〟。彼の句集タイトル『宇宙開』はそういう意味である。

 

 安井俳句が重要なのは、俳句表現の裾野を無限と呼べるほど拡げることができる可能性を持っているからである。深層意識をも含む言葉(現実事物/非即物的元型イメージ)の取り合わせによって、俳句でより詳細で自由な人間精神を表現することができる。俳句はずっと下世話な現実事物の取り合わせで至高観念を表現しようとしてきたが、安井俳句では逆に、抽象的至高観念イメージが卑俗な事物に宿ることを露わにすることができる。

 

 新たな俳句手法の創始者として、安井さんは過激でありかつ一貫している。たまさか生まれたあやふやで確信のない試みは弱いからである。新たな試みは、まず創始者によって極端な高みにまで引き上げられなければ後々まで強い影響力を有することができない。後続の俳人たちは、じょじょに安井俳句を受容し、それぞれに中庸な落としどころを見出してゆくだろう。

 

 伝統的俳句を読み慣れた人はもちろん、無季無韻俳句や前衛俳句を好む人たちにとっても、安井俳句は奇矯なウルトラ前衛に見えるはずである。しかし優れた有季定型俳人だった安井さんの師・永田耕衣には『物質』という句集があり、早い段階から観念を物質(俳人にとっては言葉)と捉えて(置き直して)俳句で取り合わせている。また安井さんは富澤赤黄男・高柳重信が創出し、加藤郁乎で頂点に達した前衛俳句の正当後継者でもある。安井俳句の前衛性は、作家独自の強い自我意識によって生み出されたものでは必ずしない。それは俳句史の流れに沿っている。(中編に続く)

鶴山裕司

 

 

 

 

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