京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会『海北友松』展

於・京都国立博物館

会期=2017/04/11~05/21

入館料=1500円(一般)

カタログ=2500

 

 

 

 

 おお、海北友松(かいほう ゆしょう)大回顧展、そう言えば友松の作品をまとめて見たことってないな、と思って京都国立博物館まで見に行った。京都に限らないが、ここ十年ほどの日本の観光地の洗練ぶりはスゴイ。日本各地からやって来る観光客はもちろん、外国人が日本文化に何を期待しているのかという、〝外からの視線〟を強く意識して様々なアミューズメントを取り揃えている。

 

 京都国立博物館も、昔は敷地内に学食みたいな食堂がポツンとあって、そこで食べるオムライスがえっらい薄味で感動的だったのだが、今は立派なレストランに変わっている。清水寺などに行くと昔ながらのチープなお土産屋さんも軒を連ねているが、京友禅を始めとして敷居の高かった高級店も広く観光客を受け入れる姿勢になった。物価は高いが移動するにも泊まるにも、いちいちトサカに来て言い合いしなければならない国に比べればずっと楽だ。日本がじょじょに観光大国になっているのも肯ける。

 

『雲龍図』海北友松筆 八幅

紙本墨画 (四幅)各一八六×一三三 (四幅)各一九八×一八七センチ 慶長四年(一五九九年) 京都 建仁寺蔵

 

 友松といってまず思い出すのが雲龍図である。建仁寺の『雲龍図』はその巨大な画面と確信に満ちた筆遣いで見る者を圧倒する。東山にある建仁寺は言うまでもなく開基・源頼家、開山・栄西の臨済宗の古刹である。俵屋宗達代表作の『風神雷神図』も建仁寺所蔵だ。建仁寺の大方丈は毛利家禅僧で政治家の瑤甫恵瓊(ようほえけい)によって、慶長四年(一五九九年)に恵瓊が住持だった安芸・安国寺の方丈が移築された。恵瓊は豊臣秀吉の毛利攻め(備中高松城の戦い)の際に毛利側代表として和睦を取りまとめ、その手腕などで天下人となった秀吉に重用さた。関ヶ原では西軍につき、京の六条河原で斬首され首がさらされることになった。

 

 方丈は元々は一辺が一丈(約三メートル)の居室で清貧を重んじる高僧の居室である。鴨長明の『方丈記』は、質素で狭い部屋で書かれた文章(エッセイ)ということになる。ただ方丈は真四角の単純な構造であるため移築しやすかった。江戸時代までは、土地の値段より建物の建築費の方が高かったのである。禅寺の大方丈は、高僧の居室から転じて檀信徒を供養し、説教や修行を行う大広間となっていった。安国寺の方丈が建仁寺に移築された際に、その水墨障壁画の制作を任されたのが六十七歳の友松だった。

 

 建仁寺の大方丈は書院之間、礼之間、仏壇を据えた室中、衣鉢之間、檀那之間の五室から構成される。障壁画は当初五十二面あったが現在まで伝わっているのは五十面である。今はすべて掛け軸に改装されている。日本の障壁画は建物の用途に合わせて内部を装飾する絵画であり、ヨーロッパ絵画のように一点で独立した絵とは質が異なる。仏壇のある室中に行くには礼之間を通る必要があり、そこに描かれたのが『雲龍図』である。初めて『雲龍図』を見た人はこれから体験する禅の厳しさを予感するだろう。子供なら怖くて泣き出してしまうかもしれない。そういう意図で『雲龍図』は描かれた。

 

『竹林七賢図』(部分) 海北友松筆 (全十六幅)

紙本墨画 各一九七×一八七センチ 慶長四年(一五九九年) 京都 建仁寺蔵

 

琴棋(きんき)書画図』(部分) 海北友松筆 (全十幅)

紙本淡彩 (四幅)各一九八×一三九 (二幅)各一八六×一八四センチ 慶長四年(一五九九年) 京都 建仁寺蔵

 

 仏壇のある室中を飾るのは『竹林七賢図』である。世に隠れた隠者(賢者)が住む世界が表現されている。室中に座る者は、もちろんそのような心性を目指すべきなのである。奥の間は衣鉢之間と檀那之間だが、衣鉢之間は『琴棋(きんき)書画図』である。この絵にだけ淡彩が施されており、非常に緻密な筆遣いで風景や人物が描かれている。通常は北向きの衣鉢之間には山水画を描くようだが、友松は衣鉢之間の襖の方を煌びやかにした。こういった構成にも友松の絵画思想が表現されている。友松は禅家の思想をよく理解する知識人であり、独自の表現を許された絵師だった。

 

『海北友松夫妻像』海北友竹賛 海北友雪筆 一幅 賛 享保九年(一七二四年)

紙本着色 縦一一三×横四四センチ

 

 『海北友松夫妻像』は海北家に伝わった友松夫妻の像で、友松長男の友雪が絵を描き、友雪次男の友竹が賛を書いている。重要文化財に指定されている有名な肖像画で、昔の友松画集には必ず掲載されていた。この絵の友竹の賛と、海北家伝来の『海北家由緒記』が友松の伝記的基本資料になっていたのである。僕も古い友松画集をパラパラ見た(読んだ)一人だ。友松は北近江の戦国武将・浅井長政に仕えた海北家の出であり、海北家の人々は織田信長との小谷城の戦いで長政もろとも滅びたが、友松のみ京都の東福寺に出家していたので助かったと記憶していた。しかしよくあることだが『夫妻像』賛と『海北家由緒記』には後世の脚色がかなり入っていて、実際の友松像とは異なることが今ではわかっている。

 

 友松は天文二年(一五三三年)に海北家の五男(三男説あり)として生まれた。世は戦国時代である。父の海北善右衛門綱親は浅井家有数の武将だったが、信長の浅井攻めではなく、それより三十八年前の、浅井亮政の多賀城攻めで戦死したのが史実である。長男が綱親名を継いだので伝聞の錯誤が生じたようだ。また二代・綱親は確かに小谷城の戦いで戦死したが、次男の次郎左衛門は生き延びたので海北家の血統は絶えていない。『夫妻像』賛には「居士敢えてその芸を専らとすることを欲せず志は武道にあり」と記されているが、賛は友松没後百九年目に書かれたものである。海北家では享保の頃、武家としての再興を願っていたのかもしれない。

 

 もちろん『夫妻像』賛や『海北家由緒記』の伝記がデタラメというわけではない。友松が幼い頃に東福寺で出家して、その後、還俗して絵師になったのは事実である。また浅井家重臣の家の子として、高い矜持を抱いていたのも確かだろう。『夫妻像』賛には友松の親しい友人で、明智光秀の重臣だった斎藤内蔵助利三が本能寺の変で処刑され遺骸が晒されたが、それを不憫に思った友松と千利休門人・長盛が夜陰に乗じて刑場に忍び込み、衛兵を武力で追い払って遺骸を盗み出し葬ったという記述がある。もちろん史実ではないが、友松が主家・浅井家を滅ぼした信長に恨みを抱いていたことはあるだろう。ただ信長自刃後の友松の処世は平坦ではなかったはずである。

 

 現在の研究では、友松は細川幽斎を始めとする豊臣方武将と深く交わっていたことが知られている。『由緒記』には秀吉に謁見したとあるがそれは確認できない。しかし秀吉のために絵を描いたのは確かなようだ。また慶長三年(一五九八年)には秀吉の命を受けて、博多の小早川秀秋の領地視察に出かけた石田三成に随行している。周知のように慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いで、三成はもちろん、友松に建仁寺大方丈障壁画を画かせた瑤甫恵瓊も斬首に処せられた。幽斎も外様大名として九州の地に追いやられることになった。しかし友松はその影響をまったく受けていない。慶長五年に友松は六十八歳だが、彼の全盛期は七十代から、慶長二十年(元和元年[一六一五年])に八十三歳で死去するまでの晩年なのである。

 

 江戸初期の徳川家の権力は強大だった。大名の改封はもちろん、容赦のない御家取り潰しを断行している。友松は幽斎を学問の師と仰ぐ八条宮智仁親王寵愛の絵師であり、親王の兄の後陽成天皇のためにも絵を描いている。天皇家ともつながりのある絵師だったわけだが、徳川の世になっても友松が親しく交わったのは旧豊家の家臣が多い。友松が政治的に血気盛んな人だったなら、絵師といえども累が及ぶのはまぬかれなかっただろう。その意味で『夫妻像』賛や『由緒記』に書かれた武人気質の友松像は、実像とかなり違っていた可能性がある。少なくともごく親しい身内にしか政治的思想を洩らさなかった慎重な人だったろう。(後編に続く)

山本俊則

 

 

 

 

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