エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングス。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングスの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。

by 星隆弘

 

 

 

第2章 途上

 

 巻き布団を下ろした。そして身を起こした。

 これが本来の自分だ。

 威張り散らされた飼い殺しにされた苛められた見くびられた、そんな屈辱の三ヶ月間をくぐり抜けた俺の身中は抑えきれない喜びに焼き尽くされていた。これが本来の自分だ俺は俺自身のものなんだ。

 我を忘れるほどの解放感に包まれながら(自分がなにをしているかもわからないくらい)俺は積み上がった藁の具合をたしかめ、使えないと判断し、ベッドを組み立て、巻き布団を広げて、それから独房を点検することにした。

 奥行きと幅は前述の通り。天井はばかに高い、十フィートはある。入り口側の壁は変わったつくりだ。扉の設えてある箇所が壁の真ん中ではなく、片側に寄せられていて、もう片一方の角に腰ぐらいの高さの大きな鉄の缶が置けるようにしてあった。扉の上には壁の両端まで格子を渡してはめ込んでいた。その隙間からいつでも空を眺められた。

 うきうきと口笛を吹きながら、三歩ばかり前進すれば扉の前に立った。扉は重厚なつくりで鉄か鋼でできていると思われた。ますます嬉しくなった。鉄の缶も大いに気になった。缶の縁から中を覗き込んだ。底に安らかに横たわるひりたての人糞があった。

 俺はこう見えてじつは木版画に目がなくて、手垢まみれの騎士物語なんかの待ってましたっていうような覚悟の見せ場を描いたものは特に好きだ。このとき俺の脳裏にまとわりついていた画はのっぽでひげもじゃでぎょっとした顔の男だった、どこで手に入れたとも知れない山羊革の服に身を包み、異様な傘をごつい手に力なく握ったまま、自分が領主だと思い込んでいたどことなくキュービズム的な無人の荒地に人間の痕跡を見つけてよく調べようと身を屈めている男……。

 その時はじめて壁の様子に気がついた。どの壁も腕の高さのあたりにはいろいろな模様や、言葉や、絵がびっしりと描きこまれていた。すべて鉛筆で描かれていた。機会があればまずはじめに鉛筆をもらおうと俺は心に決めた。

 この独房にはこれまでもドイツ人やフランス人が収監されていたのだ。右手の壁、扉に近いほうには、ゲーテからの長い抜粋が書き写されていたが、苦心した痕がありありとしていた。同じ壁の反対側には風刺じみた風景画があった。その描画の技巧にはぞっとさせられた。家並み、大人たち、子供たちが描かれていた。木々も描かれていた。なんの木だろうと考え始めると、笑えて仕方なかった。

 奥の突き当たりの壁にはドイツ軍士官の精緻をきわめた大きな肖像画があった。

 左手の壁を飾るのは小型帆船、その船体番号––––十三を帆に掲げていた。「わが最愛の一艘」と下にドイツ語で記してあった。それからドイツ兵の胸像、これはかなり理想化された、恐れ知らずの(つわもの)らしい。そのあとには、名匠の未完作品 ––––ドーナツ体型の騎手が、同時に五方向に前進する全身透明ソーセージ型の馬のとんがった背骨から恐ろしい速度で滑落している図だった。騎手は片手にぴんと張った手綱を握りしめて退屈しきっている。向こう側の足が滑落に弾みをつけている。ドイツ兵の帽子をかぶって煙草を飲んでいる。俺はとっさにこの馬と騎手を模写しようと心に決めた、鉛筆を手に入れていたらすぐにも取り掛かったところだ。

 最後に、言葉が渦巻き状に取り囲んだかたちの絵が目に止まった。四つの花をつけた一本の鉢植えの絵だった。花は手の込んだ枯れかたをしていた。その枯れ様がおそろしく克明に描かれていた。萎れた花弁の描写に言いようのない念の入れようが表れている。鉢はひどくゆがんでいて机のようなものの上でぐらぐらしている、ように俺には見えた。ぐるりと渦巻いているのは弔いの言葉だった。読みあげる。『最愛の妻ゲイビーヘ、ほんとうにさようなら』。この一文とは似ても似つかぬ、荒々しい筆致で、堂々たる一行がその上に書きつけられていた。『脱走罪。禁固六年 ––––階級降格』

 五時をまわったのだと思う。足音。ガチャガチャとやかましい音が扉の向こうからする ––––誰だろう。ガコンという音で扉が開いた。獄卒が極度に無愛想に用心しながら一欠片のチョコレートをつき出した。俺は『どうも』と言ってチョコレートを掴み取った。ガチャンという音で扉が閉まった。

 俺は仰向けに寝転んだ、夕暮れがガコンガチャンとうるさく鳴るその上の隙間越しにぼんやりと青くにじんでいく奇跡を見せてくれた。ちょうど葉っぱの茂みも見えた、つまりそこに木があるわけだ。

 左手の遠くのほうで、かすかにだが、なめらかな口笛が聞こえてきて、それが皮をむいた柳の枝のように涼しげで、気がつくと俺はペトルーシュカの一節に耳を傾けていた、ペトルーシュカか、パリのシャトレ座で見たな、俺とあいつとふたりで……。

 口笛は途中で打ち切られ ––––俺の鑑賞もそこまでとなった。この暗号伝達は三十分も続いていた。

 暗くなった。

 俺は一欠片のチョコレートのさらに一欠片を格子窓の枠に置いた。また仰向けになっていると、小さな影法師がやってきて、チョコレートの欠片を食べ始めたが、食べきるのに四分かそこらもかかっていた。食べ終わると俺のほうに顔を向けた、俺からも微笑み返した、そのまま別れた、ふたりとも前よりも幸せな心持だった。

 このちんまりした独房はひんやりとしていて、俺はなんなく眠り込んだ。

 (パリを思い出しながら)

 ……声の振動を左手の壁越しにはっきり感じるそんな話し声で目が覚めた。

 獄卒の声。「なんだ」

 古株(・ ・)の完膚なくカビ臭い声、器官の中や出入口が腐ってるんじゃないかと思えてくるその声が、絶望のはるか向こう側の筆舌に尽くしがたいところで蜘蛛の巣を張ったような辛抱強さをもって答えた。『スープを』

 「おう、スープか、今やったばかりじゃねえか、サヴィーさん」

 「もちっとなにか食わんと。金なら所長のところにある。金を取ってきてくれんか所長のところにあるからそんでなにかもちっとでいいから」

 「そうかい、じゃあ今日また今度来る時にサラダを持って来てやるよ、とびきりのサラダだぜ、先生」

 「恩に着るよ、看守様」そして声は萎れ果てた。

 ガチャン! ––––獄卒はまた誰かに話しかけ、一方でサヴィーさんの独房の扉に錠を下ろし、サヴィーさんがガコンガチャン越しの隙間からでも一言も聞き漏らしえないようにわざわざがなり立てるのだった。

 「ボケじじいめ! のべつまくなしねだりやがって。どうだ貴様なんにもくれやしねえってことにアレはいつになったら気がつくと思うね」

 俺の扉の前でがさごそやり始めた。ガコン!

 戸口に突っ立っている顔と顔、連中は俺を見下ろしていた。その顔つきは隅から隅までそっくり獄卒的だった、つまり馬鹿みたいにニタニタほくそ笑み、それでいてどっしりと落ち着き払ってうきうきしている。見ろよこいつ、どいつのせいでぶち込まれたって。

 右に立った図体がしっかり身を屈めてボウルをひとつ部屋の中に突っ込んだ。

 俺はにっこり笑って言った。「おはようございます、看守殿。缶が臭うんですが」

 連中はにこりともせず言った。「そりゃあな」俺はにっこり笑って言った。「鉛筆を一本いただけますか。暇つぶしにいいので」連中はにこりともせず言った。「そのうちな」

 俺はにっこり笑って言った。「水もいいですか、できれば」

 連中は扉を閉めて、言った。「あとでな」

 ガチャンという音と足音。

 俺は俺を見つめ返すボウルを見つめた。緑色の脂がテラテラ光って秘密の中身を覆い隠していた。二本の指を挿入して秘密をこじ開けてみた。二本指がまさぐり出したのは萎びた細切りのキャベツと大粒で、硬い、心を込めて、格式張った、生の豆だけだった。ボウルの汁を散らかさずに捨てるためには例の臭いモノの蓋(・ ・ ・ ・ ・ ・)を開けなきゃならなかった。やったさ。

 こうして豆と細切りキャベツだけを残した。それを一息にかき込んだ、下っ腹に今後の不安を感じながら。

(第05回 了)

 

 


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