二月号は「今はじめる人のための即席!俳句入門」特集が組まれていて、通常号より力の入った特集になっている。それだけ需要があり雑誌も売れるのだろう。昔ホットドッグ・プレスという雑誌があって、初めてのデートや初めてのセックスといった若者向けの特集をルーティンで組んでいた。それをちょっと思い出させないこともない。ただ今回の入門特集はけっこう楽しめた。

 

この中から、「これは名句だ!」と思われる句を選んで□に○を入れてみてください。

 

Q:④

A 今生のいのち尽くせとさくらかな   □

B まさをなる空よりしだれざくらかな  □

 

A④→B

④の二句は、俳句歴の長い人でもつい肩に力の入ってしまう季語を用いています。「桜」となるとなぜか皆、気合いが入ってしまうのです。あまり力まずに、さらりと写生したことで、Bの句は名句として残ることになりました。富安風生作のこの作品は、たとえば日本の屏風の描き方を踏まえたような、「ある時、突然、桜が出現した」に近い豪華な趣きを持っています。

(櫂未知子「名句探し?? あなたは何句見抜けるか?」)

 

 櫂さんは「私は数えるのが好きです。いや、好きというより、数えないと気が済まないのでしょう」(「ワンポイントレッスン①定型」)と書いておられる。僕の老眼が進んでいるせいなのだろうが、文章を引用するまで〝数える〟ではなく「〝教える〟のが好きです」と読み違えていた。ただそう読ませるような力が櫂さんのレッスンにはあって、その熱意で最後まで櫂さんの誌上レッスンを受けてしまった。

 

 ただもちろん俳句は多様である。引用のレッスンは「「これは名句だ!」と思われる句を選」ぶというものだが、俳句を詠む際には様々なシチュエーションがある。前後を切り離せばなるほど富安風生の句は秀作だが、「今生のいのち尽くせとさくらかな」に何らかの事情を示す詞書が添えられていれば、人の心を打つこともあるだろう。

 

 正岡子規は夏目漱石がロンドンに留学する際に「秋の雨荷物ぬらすな風邪引くな」の句を詠んだ。ロシアのバルチック艦隊との日本海戦で「天気晴朗ナレドモ波高シ」を打電したことで有名な、秋山真之が米国留学する際には「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」と詠んだ。いずれも挨拶の句で前後の文脈がわからなければ余り響かない。

 

 詞書や文章(前後の文脈)がなければ訴えかけない句はいらくでもあるわけで、子規は芭蕉俳句は独立一句として鑑賞すればそれほど秀句はないと論じた。無茶を言っているわけではない。確かにその通りという面がある。芭蕉は江戸時代を通した稀代の名文家であり、その散文に俳句が影響を受けないはずはない。俳句(詩)と散文(日常)を含め、文学では結局のところ作家の人間性が露わになる。ただスラリと俳句を詠む習練を積んでおかなければ、文脈が感動的でも句は響かないだろう。

 

 櫂さんは「俳句はスポーツに似ています。たしかに理論は大切だけど、「右足の次に左足を出して」などと考えているだけでは、ランナーは前に進めません」と書いておられる。これもその通りだと思う。秀句・名句を詠もうとウンウン唸るのはあまりいいことではなく、駄句を恐れず読み捨ててゆく方が上達は早いだろう。

 

 そういう意味では、名句とそれほどでもない句を並べて鑑賞するのは効果的かもしれない。名句は様々な理由で名句と呼ばれる理由を持っている。一句ごとに名句を成立させる理由は異なる。その理由を考えながら句を読み捨ててゆくわけだ。ほぼ誰もその評価を揺るがせにできない名句を念頭に置いて句を読めば、彼我の距離から得るものがあると思う。

 

【11月のお題】

第一問 ○○○○や明治は遠くなりにけり

 

【投句】

菊の香や明治は遠くなりにけり  長尾登

ぼろ市や明治は遠くなりにけり  池井健

草笛や明治は遠くなりにけり   岡山幸子

牛鍋や明治は遠くなりにけり   角田裕司

原子炉や明治は遠くなりにけり  鈴木豊子

鉄道や明治は遠くなりにけり   滝本誠

口髭や明治は遠くなりにけり   秋山マリア

(岸本尚毅「埋字で学ぶ五・七・五」)

 

 特集ではないが、毎号岸本尚毅氏による「埋字で学ぶ五・七・五」という読者参加型の俳句指導が連載されている。これがけっこう面白くて毎号読んでいる。櫂さんを起用した初心者向け俳句指導よりも、こちらは中級・上級者向けである。どんな俳人だって、もう完全に日本語の一部となってしまった俳句には太刀打ちできない。たとえば「池」と「蛙」の取り合わせで句を詠めと言われれば、かなり意欲が萎えるだろう。それをあえてやってみようという企画である。

 

 今月のお題になった「○○○○や明治は遠くなりにけり」は、言うまでもなく中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」が本歌である。草田男の句には志賀芥子の「獺祭忌明治は遠くなりにけり」の先行句がある。「獺祭忌」は子規の命日のことだが、それを草田男は「明治」と大きく枠を広げたのである。本歌取りとも呼べる草田男の句を、さらに本歌取りしてみようということである。

 

 草田男の「降る雪や」の初出は昭和六年(一九三一年)三月号「ホトトギス」である。この句が人口に膾炙したのは、昭和の御代になり、明治が遠ざかってゆくという明治生まれの人々の強い共感を集めたからだ。草田男は明治三十四年(一九〇一年)生まれであり、彼自身の感慨が同世代グループの共感を得たのである。

 

 そうすると、明治生まれではない俳人は初手から不利だ。同世代人の感慨ではなく、客観として存在する明治時代の遠さを表現しなければならなくなる。あまり明治とかけ離れた現代事象を持ってくると、下七五が浮いてしまう。そこはかとない違いを際立たせる五文字が理想なわけで、「口髭や明治は遠くなりにけり」あたりが穏当なところだろう。明治時代の紳士はほぼ全員と言っていいほど帽子をかぶり、髭をたくわえていた。ファッションは循環すると言われるが、現代のシャレ男たちの大多数が帽子に口髭というスタイルになることはまずないでしょうな。

 

 で、俳句初心者向け特集はどの商業雑誌もやっているのだが、角川俳句は結社――つまり雑誌の大きな収入源である結社の宣伝広告に便宜をはかっているなぁと感じないこともない。初心者特集の末尾には「見学、体験入門可!全国句会情報」が列挙されている。これはこれで便利だと感じる人もいるだろうが、四十代くらいを境に結社や協会所属俳人が減っているという現状もある。

 

 角川俳句新人賞応募者を見てもかなり高齢化しており、若い俳人の支持があまり得られていないことがうっすら伝わってくる。ビジネスは昨日と今日と明日のことであり、十年後、二十年後を考えるなど、お気楽な寝言に過ぎないことはよくわかる。ただ変わりつつある俳人の動向をある程度捕捉しながら誌面を作ってゆかなければ、やはり苦しくなるだろう。

 

 もちろん結社と言っても全結社が同じ状態にいるわけではない。ただ今後、俳人を集められる結社と終刊を迎えてゆく結社がはっきり分かれるだろう。また年長俳人たちは眉をしかめるだろうが、結社無所属の俳人たちはより自由な俳句風土を求めている。僕は俳句文学という風土の本質に鑑みれば、俳句で徒手空拳の自由は幻想だと思うが、そういった若者のニーズをある程度は吸収していかなければ雑誌は魅力がなくなる。

 

 どの文学ジャンルにもセンター雑誌は必要である。結局のところ、作品評価とは残酷なヒエラルキーなのだ。ただそのヒエラルキーの作り方は時代によって変わり、特に現代はどうやら大きな痛みを伴う改編が不可避のようだ。今後も大結社に頼る雑誌作りはリスキーかもしれませんよ。

岡野隆

 

 

 

 

■ 櫂未知子さんの本 ■

 

■ 岸本尚毅さんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■