十一月号の特集は「蘇る名文!俳人たちの編集後記」である。俳句の世界では俳人が集まって結社誌や同人誌を刊行するのが一般的である。膨大な結社誌・同人誌の中から歴史的意義があり、内容的にも面白い編集後記を抜粋してみようという企画だ。星野麥丘人、高柳重信、安住敦、森澄雄、高濱虚子、山口誓子、林翔の七人の編集後記が再掲されている。
総論「句誌について」で書いたが、俳句の世界では結社誌と同人誌に本質的にはあまり大きな違いはない。基本的に主宰格の俳人がいて、その俳人が建前上、所属俳人すべてが同等の資格を持つ同人誌制を好むか、主宰を頂点としたピラミッド型を良しとするかで同人誌と結社誌に分かれる。ただいずれの場合でも創刊と終刊号の編集後記は面白い。なぜ同人誌や結社誌を刊行するのか、あるいは終えるのか、その理由(理念)が書かれているからである。
最近、体力と視力が低下しましたので、「天狼」の選を、止めて「天狼」を終刊します。
「天狼」に、満ちてゐた私の俳句精神を皆様で受け継いでお励みください。
「天狼」の名称は、これを限りとします。
平成五年十一月
山口誓子
「天狼」は平成五年(一九九三年)九月に誓子の体調不良で休刊し、翌六年(九四年)三月に誓子が死去して六月号・通巻五四八号をもって終刊した。引用は終刊号に掲載された文章だが直筆原稿の写真掲載だった。簡潔な実に誓子らしい文章であり、また俳壇結社誌の性格をよく表した文章である。
結社誌は本質的に主宰のものなのだ。誓子は「天狼」は自分の「俳句精神」の表現の場であり、それを受け継ぐ者たちの雑誌だと明快に述べている。また誓子は自己の俳句精神は、自分の人生の終わりをもってひとまずの区切りとなると認識していたようだ。創刊俳人の精神を受け継いで主宰が変わってゆく結社誌もあるが、誓子の態度は潔いとも言える。俳句界に新風を起こしたいのなら、自らの結社誌を新たに作れば良いということか。
言いにくいことだが、俳句の世界で肉体労働に近い形であくせく働いているのは結社誌の主宰とその編集部員くらいのものだ。毎号ほぼ必ず作品を書き散文を載せ、その上門弟たちの俳句の選や添削をして初心者を指導している。月刊や季刊で定期刊行される結社誌に比べ、同人誌の刊行ペースは概してルーズだ。年に一、二冊の雑誌を出したくらいで大それた仕事をしたような気になっている俳人がとても多い。ただそんな悠久の時を生きていたのでは、いつまでたっても仕事はまとまらない。いわゆる文学的進歩も望めない。寄贈された句集ですら人はなかなか読んでくれないのだ。ましてや同人誌をやである。
また「天狼」は、当初は西東三鬼が誓子を引き入れて同人誌を刊行しようとしたことから始まった。しかし誓子に面談して雑誌刊行を打ち合わせるうちに、主宰・誓子、編集・三鬼の同人誌に変わっていた。これもまた俳壇らしい出来事である。簡単に言えば誓子が他の俳人と同格の同人誌などあり得ないということだ。
それはなぜか。明確な理由などない。目の前に座っている誓子の存在格に三鬼が臆したのだ。これは俳壇ではたまにある出来事だが、本当に強烈な存在格で他の作家を圧倒できる俳人は少ない。たいていの結社主宰は誓子のような存在格を目標としながら、滑稽に上滑りして威張り散らしている。誓子は決して傲慢で傍若無人な人ではなかった。ただ三鬼のような俳人でも臆してしまったということは、俳句が一筋縄ではいかない文学であることを示している。俳句は民主主義的自由平等概念よりも古い骨格を持っている。
*このように同じ俳人の同じ作品を対象としながらも、それを論じる側の見解は、かならずしも同一ではない。これは今回の特集の文章ばかりでなく、今日の俳壇における作品批評の状況も似たようなもので、時には同じ作品に対する評価が、その論者の違いによって天と地との隔たりを見せることすらある。ただし、このような状況を眺めながら、ただ単に評価基準の一本化を願ってみても、やはりどうなるものでもあるまい。(中略)
*ほんの少し考えてみれば明らかとなるはずであるが、この評価基準の不安定ということは、今も昔も同じであって、たとえば昭和初期の俳壇では、そのため「ホトトギス」俳句と反「ホトトギス」俳句との間に活発な競争状態が生まれたのも周知の事実であろう。そこで行なわれたのは、いわば評価基準と評価基準との熾烈な戦いであり、その刺戟によって多くの優れた俳人が新しく出発し、また新しい技術も次々に開拓されていったのである。もちろん、その戦いは、実現を目指す理想の高さを競いあうことであった。
高柳重信(「俳句研究」昭和五十八年第五十巻第三号)
「俳句研究」は商業誌と同人誌の中間にあった雑誌だが、高柳重信が絶対的主宰だった。重信の編集後記は概ね引用の文章のようなもので、その特徴は徹底した文学主義である。言語道断に俳句を文学として捉えるという姿勢である。
重信はある作品に対する評価が論者によって大きく異なるという現実を挙げた上で、それは必ずしも統一されるべきものではなく、「評価基準と評価基準との熾烈な戦い」こそが理想的状態なのだと述べている。それにより「優れた俳人が新しく出発し、また新しい技術も次々に開拓され」るからだ。また異なる評価基準の対立はセクショナリズムによって生じるものではなく、「理想の高さを競いあう」ためでなければならないと論じている。
ただ重信という高い理念を持ち、実作者としても論客としても飛びきり優秀だった俳人が、結社主宰ではなく同人誌の編集長という位置に立たなければならなかかったところにも俳句界の難しさがある。俳壇では凡庸な俳人も優れた俳人も、そのほとんどが結社から現れる。優秀な俳人を束ねることが雑誌刊行の理想なのは言うまでもないが、結社から引き抜くのは難しいのだ。そのため重信は同人誌という形態を取った。
俳壇では結社を掛け持ちするのは基本的に御法度である。師は一人に絞らなければならない。しかしある結社に所属しながら同人誌に参加することは不可能ではない。重信はめぼしい俳人がいると、自ら出向いて「俳句研究」同人にリクルートしていた。結社でも俳人のリクルートは盛んに行われているが、結社員の数を増やすための初心者リクルートがほとんどだ。重信は少数精鋭の同人誌を作るためにリクルートに励んだのである。
少年少女の頃に五七五定型に絶対的に魅了された人が多いせいか、俳人は所与の環境をごく自然に絶対として受け入れる傾向がある。結社であれ同人誌であれ、たまたま縁があれば、それを所与のものとして参加して結社員や同人として活動することになる。結社と同人誌の違いを理念として考えたことすらない俳人がほとんどだろう。だからくだらないセクショナリズム争いが次々起きるのだとも言える。
結社は原則的に主宰のものである。主宰の俳句理念に賛同し、それを継承しようという俳人しか本来は結社員になれない。もちろん誓子のような強烈な主宰の魅力が結社員を集めることもある。実際には様々な現実利害関係が結社を肥大化させるとはいえ、結社主宰の理念的現実的力を頂点とするピラミッド型ヒエラルキーを結社員が受け入れなければ、結社は成立しない。
これに対して同人誌は抽象理念で結ばれた作家集団である。俳壇のような結社の亜流としての同人誌は本来あり得ない。結社の否定形としての同人誌では意味がないのだ。結社主宰の強権的ヒエラルキーを嫌うあぶれ者たちが肩寄せ合っても大した仕事はできない。
同人誌の理想型は加藤郁也を中心に結成された「ユニコーン」だろう。あの雑誌は三号で空中分解した。理念が見失われれば即座に解体するのが同人誌本来の姿だ。作家が安全保障的共同体や作品発表のペースメーカーを求めるなら、同人誌ではなく素直に結社誌に所属すれば良いのである。俳人には物事をひとつずつ原理的に考える基本的姿勢が欠けている。当たり前だが作品で俳句と文学の世界を驚かしたいなら、うんうん考えるのがその第一歩である。
岡野隆
■ 山口誓子の本 ■
■ 高柳重信の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■