オポン・イファ(Opon Ifá 占い用のお盆)(著者蔵)

ナイジェリア・ヨルバ族 19世紀中頃~20世紀初頭 縦25.4×横26.2×厚1.3センチ(いずれも最大値)

 

 

 骨董にも地理的制約はあって、日本ではイスラームやアフリカの遺物がなかなか手に入りにくい。実際に手に取って見る機会が少ないのだ。キリスト教徒は十字軍の昔からイスラームとは仲が悪いと言われるが、ヨーロッパ人でイスラーム美術を好む人は意外と多い。だからヨーロッパの骨董屋に行くと、ちょこちょこイスラーム骨董が置いてある。少なくとも日本より取り扱い点数が多く、骨董屋の知識も豊富だ。質問すればちゃんと説明してくれる。

 

 アフリカ美術も同じで、品物が多いのはヨーロッパとアメリカである。多少余裕ができると、自分の出身国の美術を手元に置きたいと思うのは人情で、アフリカ系アメリカ人がコレクターになったりするのである。ただアフリカ美術の大半は木製の仮面やトーテム、木像、装飾のある扉などで、古い物は意外と少ない。ミシェル・レリス一九三四年刊の本に『幻のアフリカ』があるが、仮面やトーテムは儀式用で、祭祀が終われば破棄したり焼いたりしたようだ。『幻のアフリカ』にはレリス撮影の、荒れ地に棄てられた見事な仮面のモノクロ写真が載っている。骨董好きはそれをじーっと見つめたりするのだった。

 

 また先進国でアフリカン・アートが人気なのはよく知られていて、現地の人たちがせっせと古い様式に倣った木製品を作っている。要するにお土産物だが、民俗芸術だから贋作とは言えない。ただそれではやはり骨董のセオリーからは外れてしまう。ドゴン族の乳房がいっぱい彫られた扉などは有名で人気もあり、何点か実際に見たことがあるが、古いのか新しいのかぜんぜんわからなかった。木は古色をつけやすい素材である。

 

 今回図版掲載したのはオポン・イファ(Opon Ifá)と呼ばれる占い用のお盆である。ヨルバ族が使っていたものだ。ヨルバ族は西アフリカ最大の民族の一つで、今のナイジェリア連邦共和国あたりに多く住んでいる。ヨルバ族に限らないが、アフリカにはイファ(Ifá)という広く信じられている宗教(信仰)がある。オドゥ・イファ(Odu Ifá)と呼ばれる口承詩の体系を持つ宗教で、オルンミラ(Orunmila)が最高神である。

 

 人々は相談事があると、ババラウォ(Babalawo=謎の父)やイヤニファ(Iyanifa=イファの母)と呼ばれる一種の司祭に頼んで解決法や未来を占ってもらう。彼らはオペル(Opele)と呼ばれる鎖(数珠のようなものかな)や、今回紹介したオポン・イファを使って占う。オポン・イファを使う際は、神聖とされるプラムの実やコーラ・ナッツを十六個お盆の上に投げてその形で占う。もちろん十六個それぞれに決まった意味があり、それを読み解くのである。

 

オポン・イファ部分 エシュ(Eshu

 

 オポン・イファの上の方にはエシュ(Eshu)が彫られているのが一般的である。エシュはイファのメッセージを伝える精霊で目と口がある。占いはエシュのある方を相談者に向けて行う。エシュが神聖な占いを告げるわけだ。ただイファについては資料が少なくてよくわからない。タレントのボビー・オロゴンさんはナイジェリア出身でヨルバ語も話せるそうだから、彼に聞くとイファだけでなく人々と占いの機微もわかるんでしょうね。

 

 なおイファ信仰は奴隷や移民となった人々によって、南北アメリカ一帯に広がっている。キリスト教と習合しているが原初型は残っているようだ。そのためオポン・イファも地域や民族によって様々な特徴が見られる。

 

 このお盆を買ったのはだいぶ前で、アフリカの物だがどこでなんのために作られたのか皆目見当がつかなかった。アフリカは超広くて民俗も多い。なにげなく図録などを見ているうちにヨルバ族の占い用ボードだとわかった。日本ではめったに見かけないがアメリカの骨董屋にはけっこうある。ヨルバ族にはかなりの数の占い師がいるようで、百年くらいは経っている古いボードが多い。USダッラーで五〇〇から一〇〇〇ドルくらいだ。古さや彫りの面白さによって値段が変わる。僕が持っているオポン・イファは典型的な作例の物である。

 

 イファという宗教については参考書が見当たらなかったが、意外と身近なところにヒントがあった。エイモス・チュッオーラの『やし酒飲み』である。チュッオーラの本は僕らの世代は晶文社のハードカバーの印象が強く、同じくチュッオーラの『薬草まじない』と並んで本屋の棚にデンとあり、なにやら怪しげな雰囲気をかもし出していた(今は両方とも岩波文庫)。一九八〇年代頃までの晶文社の本には、なんとなくヒッピー文化の余韻のようなものがあったと思う。レヴィ=ストロースなどもけっこう読まれていた時期で、ヒッピーとネイティヴ・アメリカン(インディアン)とインドとアフリカ文化が、頭の中でごたまぜになっているような時代だった。

 

 それはともかくチュッオーラは、一九二〇年(大正九年)に生まれ九七年(平成七年)に七十七歳で没したナイジェリアのヨルバ人作家である。両親はキリスト教徒だが、チュッオーラの精神はどっぷりアフリカのヨルバ人である。苦労して六年間学校に通ったが、学費が続かなくて十九歳の時に勉強を諦めた。鍛冶屋の技術を身につけ第二次世界大戦中はイギリス空軍で働いた。一九六〇年に独立するまでナイジェリアはイギリスの植民地だった。

 

【参考図版】ヨルバ人の商人(1890-1893年)

 

 チュッオーラ自筆の『私の人生と活動』には、「私は努力して一九四四年に西アフリカ航空部隊(英国空軍)にコッパースミス(銅職人)として加入した。鍛冶屋の仕事もこの職分に入るのだ。私の階級はAAIで、番号はWA/8624だった」とある。この記述からチュッオーラが、イギリス軍で働くのを非常に名誉だと思っていたことがわかる。現代ではこんなことを言うのはほぼタブーだが、植民地時代には宗主国の政府職につくことをステータスだと考える人たちがたくさんいた。また先進国に強い憧れを持っている人たちも多かった。レリスは『幻のアフリカ』で、まだ幼い少年に「フランスに連れてっておくれよ」とまとわりつかれ、「奴隷制度の芽はこんなところにもあるんだ」と皮肉な言葉を書き付けている。

 

 一九四六年にチュッオーラはなにを思ったのか数日間で『やし酒飲み』を書きあげ、出版社に持ち込んだ。最初の出版社には断られたが、五二年にFaber & Faber社から刊行された。『やし酒飲み』はチュッオーラを有名にしたが、彼は相変わらず鍛冶屋になるのを夢見ていた。『やし酒飲み』の訳者土屋哲さんは解説で「農業中心のアフリカ社会では、カジ屋は、生活と芸術が一体化した職業であり、同時にヨーロッパの錬金術的な魅力を持った職業だといえる」と書いておられる。晩年は大学に客員作家として招かれ作家らしくしていたが、チュッオーラは作家になりたくて小説を書いた人ではない。

 

 チュッオーラの『やし酒飲み』がディラン・トマスらを狂喜させた理由は、その特異な内容と文体にある。彼はヨルバ語と英語が使えたがいわゆる高等教育を受けていない。研究者のオグンディペ氏は、チュッオーラは「ヨルバ語の代替物件としての適正な英語の単語を探りあてながら、ヨルバ語の言語構造と文語的慣例を彼独創の英語散文の中に組み入れていった」と言っている。土屋氏は「この言葉の精錬彫琢は、まさしく、前に述べたカジ屋の夢に固執するチュッオーラの芸術家気質とピッタリ符合する」と書いておられる。無口で創作の秘密を明かさなかった、というよりそんなものは持ち合わせていなかったチュッオーラの中には、英語文化への憧れと職人気質、それにヨルバ人の神話世界が混在していたようだ。(後半に続く)

鶴山裕司

(図版撮影・タナカ ユキヒロ)

 

 

 

 

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