東京タラレバ娘

日本テレビ

水曜 22:00~(放送終了)

 

 

 ドラマとしては、特に目新しいところはなかった。もちろんだから悪いということはない。数字もよかったらしく、バランスのとれた佳作だったようだ。目新しいところがやたらとあるドラマだと、なかなかこうはいくまい。それがいっちゃうと、傑作として記憶に残ることになる。

 

 『東京タラレバ娘』は記憶には残らないかもしれないが、何十年も経って振り返ったとき、すなわち番組のポスターとかサイトとかの画像を見て、そうだそうだ、と思い出しそうなテレビドラマではある。ヒロインの吉高由里子と隣りの榮倉奈々、大島優子を見て、うわー、若かったなーと思うだろうことが目に浮かぶような、つまり今からすでに懐かしい感じがするドラマであった。

 

 言葉を変えれば、このドラマの好感がもてる安定感は、本当の今、現代からするとちょっと古いところからもたらされている、ということでもある。すなわちこの『娘』たちの価値観は十年一日のもので、キャリアと結婚との狭間で揺れ動くというやつなのだが、リアルな三十路女はもう少し先を行っているのではないか。それは女たちが進化したというより、社会構造の変化による。

 

 変化はいきなりおとずれるものではないし、ドラマの数字がよかったのは世代の共感を得たからには違いないのだが、人というのは一般に、自分がよく知っていること、過去のものとして相対化できているものに共感する。すなわち安心して共感するので、それだから何か変わるものでもない。

 

 ドラマでは、彼女たちは自分たちがもはや「女の子」ではないことを指摘され、いささかショックを受ける。タラレバばっかり言っている女、という自己認識からドラマは始まったはずなので、でもそしたらなんで『東京タラレバ娘』なんだろう。『東京タラレバ女』じゃなくて。

 

 それと、この「東京」である。これは一種の東京名産品、ということだろうか。こういう娘だか女だかは、名古屋とか札幌ではなく、東京のものでなければならない理由があるのか。すなわち特定の地域性がもたらす限界を可能な限り排除する、という意味における首都ということなら、「タラレバ」とは無限の可能性を欲望することに他ならず、したがって永遠に「娘」でもあり得る。

 

 ただ、先ほどから感じているように、この構図は真に最先端ではない気がする。恋愛ドラマは今も数多いし、女同士の共感もマウンティングとやらの敵対も、そのときどきで描かれているものにリアリティがないわけではないけれど、すべて今に始まったことではない。テレビドラマは前衛である必要はないが、どこかでまさに「今」がなければ、懐かしむことすらあやうくなる。

 

 最先端の雰囲気は「希薄さ」である。このドラマを牽引するものは型にはまった、すなわち他者の欲望なのだけれど、そしてそこにはまりすぎるほどの吉高由里子の可愛らしい魅力なのだけれど、実はそこからの微妙なズレ、欲望の希薄化をまるで描いてないこともなくて、それこそが現代であると思われる。

山際恭子

 

 

 

 

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