『オルセー美術館・オランジェリー美術館所蔵 ルノワール展』

於・国立新美術館

会期=2016/04/27~08/22

入館料=1600円(一般)

カタログ=2700

 

 

『ムーン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』

油彩、カンヴァス 縦一三一・五 横一七六・五センチ 一八七六年 オルセー美術館蔵

 

 

 『ムーン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』は一八七六年に制作され、一八七七年の第三回印象派展に出品された作品である。巨大な作品で、ルノワールの代表作であるばかりでなく、印象派絵画を代表する作品でもある。従来技法と比較すればザックリとした人や風景の描き方、鮮やかな色彩はまぎれもなく印象派のものだ。モネの『印象・日の出』に象徴的なように、印象派の画家たちは現実世界のある一瞬を捉えようとした。それは同時代のフランスの精神風土が生んだ新たな目の経験である。

 

 『ムーン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』は軽い。これほどの大作でこれほど軽い印象を与える絵画は、ルノワールの作品史にもヨーロッパ絵画史にもほとんどない。過剰な意味が一切付加されていないのだ。描かれているのは舞踏会を楽しむ人々の姿である。貴族ではなく普通のパリ市民たちだ。舞踏会の楽しさと人々の軽さだけが描かれている。絵画が室内の重厚な人物や静物から解き放たれたことを示す記念碑的作品だった。

 

 徹底した表層絵画だと言えるが、見る者が絵に含まれる画家の思想を読み取るのではなく、絵そのものが表現する色と形から好きな思想=印象を読み取ることができる作品が成立したということである。写真と同様に表層的だが、写真とは質の違う表層芸術が印象派によって誕生したのである。現代絵画は表層絵画である印象派を起点として、そこに画家の強い思想や感受性を付加してゆくことになる。

 

『幼少期のフェルナン・アルファン』

油彩、カンヴァス 縦四六・二 横三八・二センチ 一八八〇年 オルセー美術館蔵

 

 一八八〇年代になると、ルノワールは印象派運動からは距離を置くようになる。初期作品と比較すれば、『幼少期のフェルナン・アルファン』は、軽さと明るさはルノワールならではだが古典絵画に回帰した作品だ。そういった変化を同時代の画家たちは見逃さなかっただろう。また優れた画家は常に変化してゆく。一八八〇年代から九〇年代にかけて、ルノワールは彼が習得した技法すべてを使って彼独自の絵画を模索している。

 

 ルノワールの十九世紀末は、フランス・サンボリズム(象徴主義)の全盛期でもあった。サロンで出会ったステファヌ・マラルメとは友人で、マラルメの肖像画も描いている。マラルメは肖像画を見て「裕福な金融家」のようだと言ったという。実際優れた美術批評家でもあったマラルメが、ルノワールを評した文章は少ない。はっきり言えば冷たかったと言える。神が存在するなら現実世界の全ての事物に神の意志が〝象徴的〟に託されているはずだと考え、やがて神の不在にまで行きつくマラルメのような思索的詩人に、ルノワールの表層絵画が訴えなかったのは当然だと言える。

 

 これに対してマルセル・プルーストはルノワールを絶賛した。「たちまち世界は(これまでにただ一度だけ作られたのではなく、独創的な芸術家がやって来るごとに何度も作られた世界であるが)、以前の世界とはまったく違ったものとして、だがきわめて明快な世界として私たちの前に出現する。女たちは、以前の彼女たちと違った女になって通り過ぎてゆく。なぜならそれはルノワールの女たちだからだ。つまり以前は私たちが女と認めるのを拒んできた、あのルノワールの女たちだからである」と書いている。

 

 マラルメが基本的にはキリスト教詩人であったのとは対照的に、プルーストはポスト・モダン世界を先取りする無神論作家だ。彼にとって世界はただ一度神によって作られたのではなく、「独創的な芸術家がやって来るごとに何度も作られた世界」である。ただプルーストはキリスト教圏の作家ではある。彼は早くもルノワールに、失われた世界のノスタルジーを見出しているようだ。それは第一次世界大戦を経て、ヨーロッパ精神が瓦解してゆく時代のプルースト芸術のノスタルジーでもあった。世界は何度も繰り返し想起され、そのたびに新たに作り出されるものである。ただそこには核がなければならない。ルノワール絵画はプルーストにとって、そのような核の一つだったろう。

 

『バラを持つガブリエル』

油彩、カンヴァス 縦五五・五 横四七センチ 一九一一年 オルセー美術館蔵

 

 一九一〇年代になると、ルノワール絵画には赤の色調が増えてくる。肉体の衰えを自覚した画家が、無意識に赤色を選ぶようになったのかもしれない。晩年が近づくにつてれ赤が目立つようになる作品を見ながら、「ルノワールの絵はこんなに赤かったのか」と改めて思った。またそれは梅原龍三郎の作品を思い起こさせた。梅原の作品も赤が目立つ。確かに梅原はルノワールの弟子だと思った。

 

 日本に印象派を本格的に紹介した画家は黒田清輝である。一八八四年から九三年に十年もフランスに留学し、ラファエル・コランに師事した。黒田の紹介した印象派は〝外光派〟と呼ばれ、それまでの高橋由一らの暗い絵(「脂派」と呼ばれた)を刷新する新しい絵画動向として受け入れられた。しかし印象派系の画家ではあるが、コランはマラルメ的サンボリズムに強い影響を受けていた。黒田が「構想画」という、基本的には〝象徴的意味のある絵〟を目指したのはコランの影響である。

 

 梅原は一九〇八年(明治四十一年)に渡仏し、翌年から帰国する一九一〇年までルノワールに師事した。明治時代の日本の画家たちが、いかにフランスの師に忠実であったのかは黒田や梅原の作品を見ればよくわかる。梅原作品のベースになっているのは確かに晩期ルノワールの画風だ。もちろん梅原はそれを超出するような日本的な油絵を描いたから偉大なのである。しかし晩年のルノワールの、確信的筆遣いで人や物を描き、構図ではなく画面全体でうねるような動きを表現する技法を盗み、自己のものとしている。

 

『浴女たち』

油彩、カンヴァス 縦一一〇 横一六〇センチ 一九一八~一九年 オルセー美術館蔵

 

 『浴女たち』はルノワール最晩年の作品で遺作だと言っていい。印象派の技法をベースにしながら、古典的裸婦を描いていることがよくわかる作品である。この作品は歴史上初めてヨーロッパ全土が戦乱で焦土になった第一次世界大戦中に書かれた。絵にこめられた象徴的意味はない。しかしその色と線と形がルノワールの思想を表現している。

 

 晩年のルノワールはリューマチで苦しんだ。手が震えて絵筆が握れなくなり、繃帯のような布で手に絵筆をくくりつけて絵を描いた。このルノワール晩年の姿を正確に理解していたのは、例によってと言うべきか、アンリ・マチスだ。最晩年のルノワールについて「人が彼を肘掛け椅子へ運ぶのですが、彼はまるで死骸みたいにそこへ倒れこむのです」と書いている。しかし手に繃帯をくくりつけた姿勢で仕事を始めると「この死人が生き返ってきたのです――私はあんなに幸せそうな人間を見たことがない」と書いた。

 

 マチスもまた晩年に病気で体力が衰え、絵筆を握れなくなった。しかし色紙を切り抜く切り絵で創作を続けた。ジャズシリーズとして知られる作品だ。驚くべきことに、切り絵でもマチスの色と線は表現されている。ルノワールもマチスもイズムの画家である前に生粋の創作者であり絵描きだった。生死を一貫するような強い姿勢が創作者の芸術を優れたものにする。時代が違っても大きく画風が異なろうとそれは同じである。

山本俊則

 

 

 

 

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