『オルセー美術館・オランジェリー美術館所蔵 ルノワール展』

於・国立新美術館

会期=2016/04/27~08/22

入館料=1600円(一般)

カタログ=2700

 

 

 

 

 ルノワールをこんなに楽しんで見られるようになったんだな、と思った。文化系の学生は多かれ少なかれそうだろうが、二十代の頃は知恵熱に浮かされていた。ルノワールは俗物的な絵の代表のようなものだった。わけもわからずデュシャン以前の美術家などくだらないと思い込んでいたところがあって、エクストリームな前衛的試みの作家であればあるほど、なんだか有難いような気がしていた。ただまあよく考えてみなくても、木の棒一本立っているような作品に感動しろと言うのはどう考えたって無理がある。

 

 もちろん全芸術ジャンルで前衛は必要である。絵画の世界で一番とんがった前衛はちょっと前までコンセプチュアルアートだった。すべての試みをコンセプチュアルアートで一括りにするのは乱暴だが、絵画史的な知識を前提としなければなかなか成立しにくいアートだったのは確かである。またもうすこし前衛の枠組みを拡げると、二十世紀の前衛アートは未踏の表現領域を探し求める芸術だったと言うことができる。

 

 ポップアートはアートを資本主義の大量生産複製品に重ねた。デビュッフェは画家として優秀なだけでなく大変な目利きでもあったが、精神障害者の絵などをコレクションしてアール・ブリュット(生の芸術)と呼んだ。デビュッフェはアンフォルメル(非定型)運動の中核作家だが、その基盤はアール・ブリュットに密接に繋がっている。デビュッフェ以降、政府や地方自治体などが盛んに障害者アート展を主催するようになったが、あれはどうなんだろう。僕らはデビュッフェが選んだ作品は素晴らしいと言うくらいしかできない。

 

 ホックニーやスターン・ツインズは写真やポラロイドを使った作品を制作した。さすがに美しい作品が多いが、多くの人が「なるほど、この手があったか」と感じたのも確かだと思う。未踏の表現領域を追い求める前衛アートにはアイディア勝負の面があるのは否めない。

 

 もちろんアイディアがあれば誰でもアーチストになれるわけではない。アイディアがその作家の表現欲求、つまりは核となる思想と結びついている必要がある。アンディ・ウォーホールの心性は間違いなく資本主義の大量生産に重なっていた。彼は自分に似た男を探し出してパーティなどに出席させた。「君は僕より僕らしい」と男を賞賛した。長い時間が経てばアート作品がアイディア先行で作られたのか、作家のアイデンティティと重なっていたのか自ずからわかってくる。歴史に残る表現はすべてそういった質のものかもしれない。

 

 二十世紀に前衛アートの嵐が吹き荒れたこともあり、現代では未踏の表現領域は本当に少なくなっている。また現代は情報化社会でもある。ちょっとしたアイディアはすぐに共有され相対化される。化けの皮が剝がれる速度が速くなっていると言うべきか。作家の表現手法(アイディア)とその思想が密接に結びついていなければ、現代作家として成り立たなくなっているのだ。

 

 それはわたしたちが〝モダン〟、つまり〝現代〟に肉薄していなければアートではないという二十世紀的なオブセッションから解き放たれて、膨大な過去と現在と、少しだけの未来予測から成り立つ本物のアーチストだけを愛する時代に生きていると言うことでもある。現代は古典的手法を使っていても前衛的表現であっても、フラットにそれを受容し評価できる時代だということだ。

 

 そういった現代には、現代の起源をデュシャン的前衛ではなく、もう少し時間を遡って設定する必要があるだろう。印象派が現代の起点になると思う。ルネサンス、バロック、ロココ、ロマン主義、新古典主義etc.と絵画史を辿っていっても、絵画が写実から解き放たれたのは印象派を嚆矢とする。

 

 実際わたしたちが義務教育などで受ける絵画手法は印象派のそれである。オブジェや人を正確に模写するのは一部の絵画好きの子しかやっておらず、先生はあなたの印象の通りに描きなさいと指導する。印象派の展覧会が開かれると多くの人がつめかけ、どこか懐かしいような感覚を抱くのには理由がある。

 

『猫と少年』

油彩、カンヴァス 縦一二三・五 横六六センチ 一八六八年 オルセー美術館蔵

 

 『猫と少年』はルノワール二十七歳の時の初期作品である。初期作を見ると、彼がアングルを始めとする一時代前の古典主義作家の技法を学んだ画家だということがよくわかる。ルノワールは印象派の中で最もよく一般に知られた画家だが、印象派運動を力強く牽引したのはモネやマネである。印象派以降に繋がる新たな試みを行ったのはシスレーやセザンヌだろう。ルノワールは印象派の中では古典派、あるいは職人のような雰囲気がある。

 

 ルノワールは一八四一年にフランス中部のリモージュで生まれた。和暦では天保十二年になる。父親は仕立て職人で母親はお針子だった。三歳の時に一家はパリに移住した。労働者の子らしく、十三歳の時に磁器絵付工房に徒弟奉公に出た。父親と同じ仕立て職人になるのが普通だが、絵を描きたいという願望があったのである。徒弟奉公を終えると窓の日除け職人の元で装飾家として働き、二十一歳の時に国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学した。美術学校に入学する前にシャルル・グレールの私設画塾で学んでいて、ここでモネ、シスレー、バージルら後に印象派を形成する画家たちと知り合った。ルノワールの勤勉な創作姿勢は彼が労働者階級出身であり、若い頃に工房仕事をしたことも影響しているだろう。一九一九年に七十八歳で亡くなった。

 

『陽光のなかの裸婦(エチュード、トルソ、光の効果)』

油彩、カンヴァス 縦八一 横六五センチ 一八七六年 オルセー美術館蔵

 

 『陽光のなかの裸婦』は第二回印象派展に出品された作品である。第一回開催は一八七四年。モネは一八七二年に『印象・日の出』を描き、印象派の名前は一部に知られるようになっていた。写実的な古典派の絵を見慣れた当時の人々にとって、モネの絵は文字通り、茫漠とした日の出の〝印象〟を視覚化した作品に見えた。「印象派」の呼称は当初は揶揄的な意味を含んでいたのだ。それをモネやルノワールらの画家たちは逆手に取って、というか正面から受け止めて自ら印象派を称して展覧会を開いたのだった。当時の画家の登竜門であるサロンで印象派の画家たちの作品が落選しまくっていたからでもある。

 

 『陽光のなかの裸婦』に関しても、賛辞とともに批判も寄せられた。ル・フィガロ紙は「死体が完全に腐敗した状態を示すような、緑や紫の色斑による肉の寄せ集め」と評したようだ。サブタイトルに「エチュード、トルソ、光の効果」とあるように、ルノワールはある程度はこのような批評が現れることを予想していただろう。エチュードは習作の意味だが、従来の古典的アカデミズム絵画と比較すればこの絵は完成途中の習作(エチュード)ということになる。もっとしっかりとした色と形の絵に仕上げられてゆく途中の作品なのだ。

 

 印象派がなぜ現れたのかは、絵画史的な流れからある程度は説明できる。一番影響を与えたのは斬新な風景画を描いたコローやミレーらのバルビゾン派だろう。しかし絵画は社会の大きな変化に影響を受ける。ルノワールの若き日はナポレオン三世の第二帝政が始まり、普仏戦争とパリ・コミューンの時代を経て第三共和制が始まった時期だった。同時に産業革命による従来の社会構造の変化がものすごい勢いで進んでいた。写真の出現が印象派を生んだとよく言われる。写真出現の影響は大きかったかもしれないが、それも数ある要因の一つに過ぎまい。人々の絵画に求める感受性が変わり始めていたのだ。(後編に続く)

山本俊則

 

 

 

 

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