園子温初個展『ひそひそ星』

於・ワタリウム美術館

会期=2016/04/03~07/10

入館料=1000円(一般)

カタログ=2800

 

 

 

 

 同時代で同世代の表現者で園子温を最も信頼し、敬愛している。この人の名前はずいぶん前から知っていた。一九八〇年代はまだ現代詩が盛んで、「現代詩手帖」は手に取らなかったが「ユリイカ」はときおり買って読んでいた。「ユリイカ」は詩誌ではないが、巻末に「解放区」という詩の投稿欄があった。そこで何度か園子温の名前を見た。読み方はわからなかった。ただどこまでが姓なのか名前なの判然とせず、日本人とも中国人とも知れないその漢字を視覚として記憶した。映画監督としてデビューなさってから、初めて「ソノ シオン」という音だと知った。

 

 最初に見た園子温の映画は『冷たい熱帯魚』(2011年)だった。話題になっていたから観た。たまに劇場やテレビで映画を観るくらいの映画好きに過ぎないのだ。この作品に衝撃を受け、園さんの作品史を遡り、新作も基本的に観るようになった。

 

 『冷たい熱帯魚』は賛否両論の映画だ。素晴らしいと絶賛する人もいるし、あんな映画のどこがいい、二度と見たくないと吐き捨てる人もいる。ただ主人公の妻が、連続殺人犯の男に強姦とも和姦とも言えるような犯され方をする場面は映画史に残る名シーンだと思う。確かに『冷たい熱帯魚』に救いはない。殺伐とした他者への悪意と嫌悪と不信が最後まで続く。誰にも、どうしようもない形で最後までそれで押し切られてしまう。しかしその不快さに耐え、どうにか、なんとかしようとしてできない作家の揺らぎは作品から伝わる。そのピンと張り詰めた一本の線が『冷たい熱帯魚』という作品の魅力だと思う。簡単な救いなどこの世にはないのだ。

 

『ひそひそ星』(2016年)より(以下同)

 

 『ヒミズ』(2012年)、『希望の国』(同)、『地獄でなせ悪い』(2013年)は立て続けに観た印象が残っている。『ヒミズ』はマンガ原作だが読んでいない。映画版では男と出奔した母親に棄てられ、たまにやって来ては「お前なんかいらないんだ。本当にいらないんだ。早く死んで俺に保険金下りるようにしろよ」と酔っぱらって絡む父親を持つ少年が主人公だ。

 

 川辺でボート屋をしながら、かつかつの生活を送る少年の心は荒れている。なぜかこの虚無的な少年に憧れ、少年にまとわりつく同級生の少女がいる。ある夜、酔って訪ねて来てしつこく絡む父親を少年は殺す。少女はふとしたきっかけで、少年が父親を殺してしまったことを知ってしまう。警察に自首するよう勧める。

 

 ラストシーンには二つの選択肢があった。少年が自殺するか、少女の言う通り自首するかである。そこにも張り詰めた一本の線があった。園子温は少年を自首させた。園は変わってしまったのだろうかと一瞬思った。しかしラストシーンで少年と少女は、「住田、頑張れ」と主人公の少年の名前を叫び、泣きながら走る。そこにはまったく救いがない。だが少年が死なないことで希望は保留された。

 

 では『希望の国』にはどんな希望があるだろう。この映画は東日本大震災と福島原発事故を題材にしている。地震と原発事故が起こり、酪農を営む老夫婦と息子夫婦の家の前に半径二十キロ圏内と圏外を分ける柵が作られる。ただ単純に原発事故を扱っているわけではない。園は父親に「原発事故は二度目だ。政府の言うことは信用できない」と言わせている。父親は自分たちは残り、息子夫婦を疎開させる。妻は妊娠している。放射能で胎児に影響が出るかもしれないと聞いて過剰な恐怖症に陥り、宇宙服のような防護服を着て出歩くようになる。

 

 息子はさらに車で遠くに逃げる。もうだいじょうぶと妻は防護服を脱ぐ。車を降り、海辺で休憩している時に妻は子供連れの母親と楽しそうに話し始める。息子はそれを見ている。父親からもらったガイガーカウンターが、危険な数値を示して鳴っているのをそっと消す。その頃父親は、市役所の人の疎開して欲しいという要請を断り、牛を自分の手で殺し、認知症の妻といっしょに家に火をつけて死ぬ。ここにも簡単な救いはない。簡単な救いを設定することはいくらでもできた。しかし園子温にはできなかったと言うべきかもしれない。

 

 『地獄でなせ悪い』は若き日の園子温を彷彿とさせるような映画だ。高校時代から8ミリの自主映画を撮っている青年がいる。素晴らしい映画を作るんだと息巻いている。しかし三十歳近くなっても相変わらず実現しそうのない夢を熱く語っているだけだ。この青年が、ひょんなことからヤクザの出入りを撮影することになる。本物の出入りだ。実際にバタバタと人が死んでゆく。青年の仲間の撮影スタッフも全員死ぬ。監督である青年だけが生き残る。

 

 彼は銃弾が飛び交う中、仲間が撮ったフィルムをかき集め、夜道に飛び出して走る。「すごい映画が撮れた」と叫ぶ。この映画にも一直線に張り詰めた一本の線がある。ただラストは「カット」の声がかかり、主演俳優が立ち止まって肩で息をするシーンで終わる。『地獄でなせ悪い』は園子温による、かつての自分へのレクイエムなのかもしれない。仲間は死んだ。あるいは自分とは別の道を走っている。〝地獄でなせ悪い〟と呟き、すごい映画を撮ろうと足掻く青年は孤独だ。ただ立ち止まって考える時期に差し掛かっている。

 

 今まで自主制作で8ミリ映画を撮ってきた俺にとって、この『自転車吐息』の現場は、とてもハードだった。すべてが未体験。プロのスタッフとともに「きちんとした、客に見せられる映画」を撮るというのが、好き勝手にやってきた8ミリ映画の頃とは違って、まわりのスタッフも「この8ミリ小僧が」という目で見下すし、映画の基本的ルールも知らない俺は現場でとにかく右往左往し、心が壊れそうになった。というか壊れた。(中略)

 とにかく成し遂げたことには、間違いない。俺は胸を張って、商業映画の扉をノックすればいいだけのこと。8ミリ時代のしみったれた映画の記憶なんて、忘れちまえばいいんだ。

 スカラシップを獲った途端、たいていの自主映画監督が個性を失うのも、このためだ。自主映画監督の多くはスカラシップ作品を作る過程で牙を抜かれ、「普通の映画監督」になる。(中略)いま思い返すと、俺もまた、そういう(てつ)を踏んだんだと思う。(中略)

 「お先に行くわ。お前も早くついてこいよ」

 同居人は舌打ちして、アホか、と(にら)んだ。

 「園子温は世渡り上手だよな。あんなメチャクチャな8ミリ映画撮っていたくせに、いざとなるとあんな映画撮りやがって」(中略)

 いま思うと、その頃の俺の8ミリ映画はいわゆる日本映画なんかよりもずっと素晴らしく上等で、日本映画なんてしけたもんじゃなくて、アートだった。(中略)

 何でそんなことに気づかなかったのだろうか。(中略)プリミティブな衝動で自分も何かを表現したい。それがたまたま8ミリ映画だっただけだ。(中略)当時の日本映画のすべてがうんざりするくらい嫌いだった。

 いま思うと、日本映画に「アート」が不在だったからかもしれない。

(園子温『ひそひそ星』より)

 

 映画監督に限らず、どんなジャンルの創作者も一度は直面する壁を園は回想している。興業である映画業界では商業主義の縛りが小説などよりも遙かにきつい。しかし創作を〝商品〟にまで高める過程で多くの創作者が「牙を抜かれ」るのも確かなことだ。テレビマンが視聴率を激しく気にかけるように、映画監督は興行成績を作品の〝評価〟とするようになる。詩人や小説家なら名前の知れた雑誌に作品が載り、一つか二つ賞を受賞すればアガリという気分になる。なぜあんなに焦り、不安にさいなまれてながら書いていたのか、だんだんわからなくなってゆく。もちろん何かを「とにかく成し遂げた」のは確かなのだが。

 

 

 この〝世の中に出るための敷居〟は、表舞台で活動しているすべての創作者が踏む。敷居を踏めば必ず創作者は変わる。いわゆる大衆に迎合して売れっ子になってゆく作家を誰も責めることはできない。意地を張って商業主義に背を向ける創作者がカッコイイわけでもない。園子温が信用できるのは商業主義に背を向けることなく、マイナーだが優れた映画作家になることもなく、商業映画の世界で彼の創作姿勢を貫いていることにある。彼の目標の一つは園子温という〝個〟を起点として、日本映画を変えるような力を持つことにあるだろう。

 

 二〇一二年の最初の太陽が海から上がってくると、がれきの山が光り輝いた。破壊された橋の断片が、廃虚の家が、ひび割れたアスファルトの割れ目が、キラキラと輝いたっけ・・・・・・。

 海でびしょびしょになった町が、輝いていた。

 海でぐしゃぐしゃになった町が、輝いていた。

 無人の町。「あけましておめでとう」の声もない。鳥の鳴き声だけ。無音の町に太陽が輝いた。ああ、思い出す。福島から新宿に戻ってくると、色とりどりのネオンと騒音でやかましかった。

 こいつらぜったい何もわかってない。新聞やネットの文字を読んでわかったフリをしてるけど、何もわかってない。なぜならここは「この世」だから、「この世」を満喫している連中に「あの世」の話なんぞ理解できるか。

 腹立たしい。五十歳を迎えた俺は東京のアパートに戻って、次に何を撮ろうか考えていた。もう福島に関しては少し時間を置こう。五十歳の俺には重すぎる。その頃、二十五年前に書いた『ひそひそ星』のシナリオは、俺の部屋のどこかにそっと置かれたままだ。

(同)

 

 二〇一一年三月十一日に起こった東日本大震災とそれに続く福島原発事故をきっかけに、園子温は確かに変わったと思う。実際、原発事故を題材にした『希望の国』を撮り、そのほかの映画でも福島で撮影している。しかし園は福島を巡るいっさいのぬるいヒューマニズムと無縁だ。彼が東日本大震災と原発事故で激しく動揺したのは間違いない。だがその動揺と作品との間には距離がある。

 

 全編ヒップホップのミュージカル映画『TOKYO TRIBE』(二〇一四年)では何度も東京の街が地震で揺れる。それは東日本大震災をきっかけに、それ以前もそれ以降も、日本という国の精神が揺れていたんだと認識した園の喩的表現だと思う。だから『希望の国』では「原発事故は二度目」でなければならない。それは最後ではないのだ。一部の文芸批評家が書いたように、東日本大震災は何かの終わりでも始まりでもない。決定的な区切にはならないということだ。しかしどうしようもない現実がある。その生で露骨な現実が園子温を惹きつけるのだろう。

 

 

 園は福島での体験を「この世」と「あの世」という言葉で語っている。東日本大震災と福島原発事故は、この世にいながらあの世を垣間見るような経験だったということだ。あの世からこの世を垣間見たのだと言ってもいいかもしれない。平穏な日常は一瞬で悲惨に変わる。それは大きな傷であり誰も埋められない陥没点だが、陥没点でしかないとも言える。それでも世界は終わらないからだ。悲惨という日常はどんどん古びてゆく。日常は無数の〝陥没点/あの世〟を含んでなにごともなかったように過ぎてゆく。

 

 俺の三月十一日がまだ来ない。

 俺の三月十一日は、この部屋で起きるか、さもなくば路上でだ。

 今日は、俺はここにいる。

 何も起きていなければ、福島の二〇一一年三月十二日のすべての民家で昨日と同じように日めくりがめくられ、冷蔵庫に貼られたメモ用紙をお母さんが読み上げて、子供が返事をする。少年が三月十二日の朝刊を配達する。それを受け取るお父さんは、退屈な朝刊の一面を眠い目をこすりながら眺め、お母さんに返す。

 「たいしたことはないな、今日も」

 俺も二十五年前のとある日、そうつぶやいていた。

 『ひそひそ星』の絵コンテを描き続けて半年、いっこうに撮影の目処が立たず、いらだっていた。一九九二年の三月十一日も絵コンテを描いていた。廃虚の町を主人公が歩く。その廃虚の町はいったいどこで撮影するのだろうか。そんな町は日本にはない――過去にも、現在にも。

(同)

 

 二〇一一年三月十一日を経験した園が、二十五年も前に構想した『ひそひそ星』の映画化を決めたのは、「あの世」と「この世」を映画として現実世界に再現するためだろう。『俺は園子温だ!』(一九八五年)という自主映画を撮っているように、園は小説の世界で言えば私小説作家とでも呼べる創作者だ。ただ〝わたしのことだけを描く〟という意味での私小説作家ではない。

 

 園は自分の感覚と思想と現実しか信じない。だから福島と原発事故を巡る他者の言説は彼の頭の上を素通りしてゆく。彼は悲惨とも美しいとも呼べる廃虚を見た。それをなんらかの一筋道の観念としてまとめることをしない。もちろん神も仏も信じていない。あの世とこの世は地続きである。

 

 「こんな映画は永遠に完成しない」

 「永遠に完成しない? それこそ本望だ。素晴らしい」

 「何言ってるのか、わかってるのか?」

 「わかっているよ。永遠に完成しない映画ほど素晴らしいものはない――永遠を描きたいといって作り始めた映画が、ついに永遠を手に入れたみたいで、いいじゃないか」(中略)

 『ひそひそ星』は霊的な映画になったのか? 霊そのものにはなりえていない? 俺=霊は作り終えたからこそ悩むようになった。

 「今まで、『ひそひそ星』を作らなかったかったことで、悩まないで済んだんだ」

(同)

 

 『ひそひそ星』は神社のような形をした宇宙船に乗ったアンドロイド型の女のロボットが、宇宙を航海して宅配便を届ける映画である。福島の情景が何度も現れる。実際の被災者が宅配便を受け取る。過剰な台詞は一切ない。そこが福島だとも明示されない。女は受け取りにサインをもらうと宇宙船に戻り、次の目的地に旅立つ。宇宙船の中は畳敷きで、お茶を沸かして飲み、宅配便業者の制服を洗濯して過ごす。

 

 最後に女は地球に宅配便を届ける。地球は宇宙では珍しい、人間しか住んでいない星に設定されている。30デシベル以上の音を出してはいけないひそひそ星だ。人々は影絵で表現される。その影絵のセットがワタリウムの個展で再現されていた。映画では障子を開けて女が宅配便を受け取る。また影に戻り、夫と子供たちといっしょに箱を開け、声も立てずに影だけで泣く。それだけだ。それが『ひそひそ星』という映画のすべてであり、このシーンをどう受け止めるかによって、この映画は傑作にも駄作にもなる。

 

 

 園の「今まで、『ひそひそ星』を作らなかったかったことで、悩まないで済んだんだ」という言葉はとても正直だと思う。この作家に通常の意味での倫理はない。世界を裸眼で見つめる作家だからだ。そこにはあらゆる人間のエゴイズムが蠢いている。それを描き出せば園の映画は止まらない。一直線に危うい線の上を突っ走ってしまう。

 

 しかし本当に倫理はないのか。人間の愛や友愛は存在しないのか。それはこの世にいてはつかむことができない。『ひそひそ星』は間違いなく「霊的な映画」だと思う。そこでは霊というあるかないかわからないもの、人間を人間たらしめ、抽象であるがゆえに、崇高であるはずの霊が揺さぶられている。

山本俊則

 

 

 

 

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