六月号には中村文則氏の「私の消滅」二百三十枚が一挙掲載されている。新潮新人賞でデビューし、芥川賞等々を受賞した若手のホープである。一九七七年生まれだからまだ四十歳だ。ご自身で自分は純文学作家であり、作品は純文学であると明言しておられるが、純文学の中で数少ない〝売れる〟作家の一人である。

 

 もちろん中村文則氏が純文学作家であることにまったく異論はない。従来の、私小説が純文学であるといった漠然とした定義(あるいは思い込み)が狭すぎるのだ。わかりやすい型として、純文学を私小説に囲い込むのはもう止めた方がいいと思う。ただ基本的に起承転結があり、喜怒哀楽の人間感情へと小説を落とす大衆文学と純文学では、何が決定的に違うのかが見定められたわけではない。従来の枠組みを外した純文学が、どう新たに定義されるのかは今後の課題である。それは中村氏のようなニューウェーブの純文学作家の作品によって徐々に形成されてゆくだろうと思う。

 

 このページをめくれば、

 あなたはこれまでの人生の全てを失うかもしれない。

 

 古びたコテージの狭い部屋。机の上に、そう書かれた一冊の手記がある。ページはすでに開かれている。誰かに読まれるのを、この場所でずっと待っていたように。

 机の他には、簡素なベッドしかない。歩く度に木の床が(きし)んでいく。微かな風で、疲労した薄い窓がカタカタ鳴り続けている。

 僕はバッグの中の、手に入れた身分証明書を意識する。小塚亮大(こづかりょうだい)という男の、保険証や住民票、年金手帳まで。1977年生まれとあるから、実際の僕の二つ上。日本の身分証明制度はどうかしてる。これらの証明書に顔写真はなく、僕はこれで自分の顔写真入りのパスポートを申請することもできる。小塚亮大に成り代わって。

(中村文則「私の消滅」)

 

 「私の消滅」はサスペンス調で始まる。「このページをめくれば、/あなたはこれまでの人生の全てを失うかもしれない。」という太文字を読んだ読者は不安に駆られるだろう。それはすぐに机の上に開かれた何者かの手記の出だしだとわかるのだが、それでも読者は自分への語りかけだと受け取り、これからとんでもない暗い禁忌の世界に引きずり込まれるのではないかという予感を抱く。小説作法的に言えば、冒頭からうんと高いハードルが設定されているわけだがこの予感を中村氏は裏切らない。

 

 最初に現れるのは「僕」だが、彼はこの小説の主人公ではない。僕は小塚亮大(こづかりょうだい)という男に成り代わろうとしているが、小塚が死んでいるわけでもない。冒頭でこれからのストーリーを示唆しているのは、「ページはすでに開かれている。誰かに読まれるのを、この場所でずっと待っていたように」という記述である。僕に読ませるために、手記はあらかじめ開いて置いてあったのである。謎は薄皮を剥くようにじょじょに明らかになってゆく。

 

 サスペンス調の始まりは、作家が物語の進行を周到に計算して書き始めたことを示している。それは中村氏の小説ではおなじみの手法だ。だから中村氏の小説では〝余白〟が問題になる。作家がどこまで物語展開の細部を用意し、どこから予定調和的な物語の進行を手放したかである。中村氏が人間の暗い欲動に魅了された作家だということは冒頭を読めばすぐにわかる。それがどれほど深められ、どれほど人間心理の暗部に迫っているかということである。

 

 幼女を殺害した時の、彼の人格。それは大人しい彼ではない何かに違いなかった。幼女が泣き出す。「ネズミ人間」達に囲まれる。恐怖を感じる。泣こうとする幼女を「なかったこと」にしなければならない。そこまではわかる。しかし、彼は臆病のはずだった。「ネズミ人間」達に囲まれ、その場でうずくまり、失神することもできたはずだった。その間に幼女は逃げる。そういう結末もあったはずだった。なのに、彼は幼女を殺害した。なかなかできることではない。なぜ彼は、幼女を殺害することができたのか。

 彼は二〇〇八年に死刑となっている。絞首刑で彼の首に縄が巻かれる時、彼は大人しかったと言われている。彼が幼女を殺害した瞬間の人格は彼の脳の中のどこかに消えており、実際に死刑を受けた時の彼は、つまり何もしなかった。見ていただけの人格だったともいえる。(中略)空白の状態であったただの無気力な男の首に縄をかけたことになる。

(同)

 

 引用は僕が読む手記の一節だが、内容は宮崎勤が犯した幼女連続殺人に関する精神分析である。精神分析は「私の消滅」という作品には不可欠、というよりこの作品は精神分析とその具体的援用が主題の小説である。

 

 小説の本当の主人公は手記に現れる小塚亮大で、彼は暗い過去を背負った精神分析医だ。ある日クリニックを訪ねてきた若い女性に、小塚はどうしようもなく惹かれる。彼女は小塚よりさらに深刻な暗部を抱えている。それは性にまつわる暗い記憶だ。その女性――ゆかりを小塚は治療しようと懸命になる。治療は成功しかけるが、それと同時にゆかりは和久井という男の元に去ってゆく。小塚は優秀な精神科医だが恋人にはなれず、性的に不能もだった。しかし物語はこれで終りではない。

 

 小塚はゆかりの記憶をリセットして新たな人生を歩ませたのだが、それを思い出させる男二人が現れる。間宮と木田である。この二人によって記憶を取り戻したゆかりは自殺する。小塚とゆかりの恋人・和久井は復讐を決意する。またゆかりを破滅させたのが、小塚の子供時代から因縁のある老精神分析医・吉見だということがわかる。彼の歪んだ欲望がゆかりを自殺に追い込んだのだ。小塚は吉見の殺害も決意する。

 

 間宮、木田、吉見の殺害方法は、精神分析学の手法を駆使したものだ。小塚は間宮と木田の脳を洗脳して、自分の記憶を埋め込んだのである。小塚になりきった二人にゆかりを失った激しい苦悩を追体験させ、自殺に追い込む。また木田に老精神科医の吉見を殺させる。だから冒頭で手記を読んでいるのは、小塚になり代わるよう洗脳された間宮である。もちろん手記は間宮を導くために小塚が書いた。

 

 小塚は子供の頃に、母親の再婚で義父と異父妹らといっしょに暮らすことになり、未必の故意で妹を崖から突き落とすという殺人未遂を犯していた。だから宮崎勤の精神分析にはそれなりの意味がある。微かな共通点はあるのだ。

 

 ただ作家は宮崎や、自殺サイト連続殺人事件を起こした前上博の精神分析に、淫している気配がある。宮崎らの精神分析は「あとがき」で作家独自の見解だとあるが、それは文字通り作家による小さな説である。ただ自律的事件として語られるべき犯罪心理の詳細分析は、作品主題から微妙に浮いている。また犯罪心理を精神分析で言語化し、その構造を露わにしようとすればするほと小説の余白が失われてゆく。

 

 木田に首を絞められている吉見を、小塚はドアの窓越しに見つけた。(中略)〝ああ、来たか。これでもう、きみもまともに生きられないな〟

 その顔がよぎり、眩暈を感じ小塚は吐いた。(中略)

 頭が重い。このままだと、自分が死んで終わりだろう。自分の人生の結末。でもそうなるわけにいかなかった。そうすれば、自分はこの世界に敗北したことになる。だからETCの機械の前にいた。一人でできるように、簡単に手を加えていた。

 自分は、と小塚は思う。こういう人生を歩みたかったという、ささやかな願望があった。誰かと一緒でなくても、どこか静かな場所で、散歩したり本を読んだりしながら過ごしたいという願望。こういう内面を抱えるのではなく、もう少しだけシンプルな内面を持つ人間になりたかったという願望。テーブルの上には、忘れてもいいように、キャッシュカードやクレジットカードの暗証番号、新しく借りた小さなアパートの住所がある。この病院の処分も、弁護士を雇いもう済ませている。

 ETCを終えたら、きっと自分は空白のままこの紙を見るだろう。そこには、手記と並行して書かれていた、自分の別の人生が記されていた。平凡に生まれ、平凡に生きた架空の嘘の人生が。

(同)

 

 間宮、木田、吉見を殺害し、復讐を果たした小塚は自らの人生をリセットするためにETCという機械の前に立つ。脳に強い電流を流して記憶を消すための治療機械である。だから「私の消滅」という表題は、精神分析学の知識と機器を使って他者の〝私〟を消し、自らの〝私〟をも消し去るという意味になる。ゆかりと間宮、木田、吉見の〝私〟は死によって消え去ったが、小塚の〝私〟は人為的操作によってなくなった。ただサスペンス小説的なテクニックによって動的に紡がれているが、その物語展開は予定調和的である。

 

 奇妙な言い方かもしれないが、作中で述べられる精神分析が緻密過ぎるのだ。宮崎や前上といった犯罪者は悪魔ではない。犯罪遂行に際して良心の呵責とも現実逃避とも名付けようのない精神的空白を抱えている。それは子供の頃から性的被害にあっていたゆかりや、主人公の小塚も同じである。彼らは生きるために精神的空白を必要とした。この空白を〝空白がある〟とはっきり認知してしまうと〝死〟は不可避になる。解決も解消も不可能で、苦しみに満ちた空白に取り込められてしまうからだ。実際「私の消滅」ではゆかりの恋人の和久井を除き、主要登場人物全員が実際にあるいは精神的に〝死ぬ〟。

 

 この予定調和的な物語展開はノワール・ロマンとしては優れたものである。小説を読む楽しみの内には、恐怖や不快感を得ることも含まれるからである。しかし予定調和は一つのパターンとなってしまう危険性がある。

 

 作品がさらに優れた純文学であるためには、精神分析を目的としてではなく、手段として活用する必要があると思う。小塚という精神科医は実質的に全能の神だが、〝私〟を消しても苦悩から逃れられるわけではない。精神分析の手法と言葉の重要性が相対的に軽くなったとき、中村氏の小説はさらに優れた純文学の輝きを得るのではないだろうか。

大篠夏彦

 

 

 

 

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