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 印象が薄いのではっきりした記憶がないが、ちょっと前から文學界の巻頭ページがリニューアルされている。かなり長い間、文學界巻頭には一ページの詩が掲載されていた(もちろんモノクロ)。文學界の読者は読んでいなかっただろうが、それがいつ頃からかカラーページになり、自由詩だけでなく俳句、短歌なども掲載されるようになった。これも現代詩の凋落を端的に表す現象である。詩に興味のない文學界編集部ですら、つまらない現代詩を巻頭に掲載する必要はなどないと気づいたのだろう。それはさておき、ここにきてグラビアタイトルが「巻頭表現」に変わり、文学に限らない表現者や時事ネタを写真といっしょに紹介してゆくページになった。

 

 詩が掲載されていた頃は、編集者が片手間に、友達の輪的に紹介の紹介で詩人を選んでいたのが見え見えだったが、少し力を入れてグラビアページを作るようになったというわけだ。しかし文芸誌のグラビアページ、けっこう難しいなと思う。文学を含む文化世界は、原則として人気投票で序列が決まる領域ではない。純文学誌ならなおさらのことで、雑誌の見識が反映されていなければ面白くない。その見識を表明するのが今はとても難しい時代だと思う。

 

 文芸誌はテレビや映画などの人気者をグラビアページに登場させることで、世間の注目を集められるわけではない。編集部の見識は〝どの作家を同時代の代表的作家として推すか〟で表れるものである。もちろんそこはかとない推し方になるが、読者には伝わる。グラビアページでそれをやろうとすれば、半年や一年は同じ作家に表現の場を与えた方がいい。しかし今は誰が、何が時代を代表する作家や事象なのかを特定するのが難しい。勢い、その場限りという雰囲気が漂ってしまう。

 

 ただ雑誌が時代の変化に応じて試行錯誤を繰り返すのはいいことだと思う。文學界の場合は巻頭グラビアページは変わったが、巻末は相変わらず相馬悠々氏の「鳥の眼・虫の眼」である。毎回時代遅れの〝大文學界的見解〟が巻末を〆ているわけだ。本当に文學界が変わったなぁと読者が感じるのは、グラビアよりも巻末ページが変化した時かもしれない。実質的編集後記はやっぱり現役編集者が書いた方がいい。その方が今の雑誌の見識が伝わる。

 

 ステレオタイプの言葉に洗脳されてたまるもんか。「穏やかな尊厳ある死」というフレーズの怪しさ。「自然」という言葉のばかばかしさ。穏やかでなくとも、自然でなくとも、幸せな生を終える人はいる、と、そんなことを考える。

 妻が考えていることは、わからない。でも、そのときも余命についてや原因については質問していなかったし、やはりパーセントのことは気にしていないのではないだろうか。

 ただ、死を見て暗くはなっているような感じがする。そして、暗いままでいいとは思っていないだろうし・・・・・・。

 未来を見ずに明るく生きるという方法が、きっとある。今はまだ見つけられていないが、いつか見つかる。

(山崎ナオコーラ「美しい距離」)

 

 山崎ナオコーラ氏の「美しい距離」は、末期癌の妻を看取る夫のお話である。妻は小さなサンドイッチ屋を経営していて病に倒れた。夫は保険会社に勤めている。妻を交えた家族は医者から余命宣告を聞かされていて、残された生の時間が少ないことを知っている。小説は夫の一人称一視点形式で、彼の内面独白が中心だ。結婚十五年目の子供のいない仲良し夫婦なので、夫の心が妻の病で占められるのは当然である。

 

 夫は現実の妻の姿を見て「「穏やかな尊厳ある死」というフレーズの怪しさ。「自然」という言葉のばかばかしさ」を感じる。ただ妻が末期癌である以上、現実離れした希望を抱くことは許されていない。彼は「未来を見ずに明るく生きるという方法が、きっとある。今はまだ見つけられていないが、いつか見つかる」と考える。思想的に言えば現実離れした希望にすがらず、現実を絶望と捉えることもなく、第三の「未来を見ずに明るく生きるという方法」はどういうものかを探るのがこの小説のアポリアということになる。

 

 「早期発見は難しかったんですか?」

 「手術はできなかったんですか?」

 「余命は宣告されていたんですか?」

 そういった問いを耳にするとき、他人の物語を押しつけられた、と感じる。妻は妻だけの物語を生きていた。しかし、妻自身が紡いだ物語とは別の一般的な物語によって、妻の終末が他人に認識されてゆく。すると、指と指の間からスライム的なものがだらだらと落ちていくような感覚を味わう。(中略)

 年齢がどうであろうが、食事に気を遣っていようが、がんを患う人は患う。(中略)別に、くじ引きをしたわけではない。妻には妻の道の他は選びようがなかったし、妻の道しか歩けなかった。他の人の歩く道を選ぶことはできなかった。

(同)

 

 小説が登場人物の口を借りた作家の〝小さな説〟という側面を持っている以上、こういった思考は正しい。ただ「妻だけの物語」が「他人の物語」――つまり癌患者を一般化する物語を超えた強さを持っているのかといえば、そうとは言えない。身も蓋もないことを言えば、人間の生はすべて「産まれて生きて死んだ」と相対化できる。なるほど真ん中の〝生〟は人によって大きな違いがあるだろう。波瀾万丈の生を送った人もいるし、市井の一人としてさしたる波風を立てぬ生き方をした人もいる。ただ波瀾万丈だから物語にしやすいかと言えば、そうも言えないのである。

 

 小説は、どんなに平穏な生を送った人にでも、戦争や立身出世といった劇的な体験をした人に劣らない物語を見つけ出すことができる文学である。それが日本文学固有の私小説が最も得意とする小説形態でもあった。しかし「美しい距離」は主人公の妻をそのような固有性を際立たせる形で描いていない。私小説だが主人公のものであれ妻のものであれ、人間の自我意識が肥大化して波乱を呼び起こす作品ではないのだ。

 

 この作品の特徴は、タイトルの「美しい距離」に端的に表現されている。比喩的に言えば小説の中心となるテーマ、つまり〝未来を見ずに明るく生きるという方法〟に距離がある。またその距離が〝美しい〟と表現されている。誰もが最初から、希望も絶望も持ち得ない世界に生きているのである。

 

 「言っておきたいこととか、やりたいこととか、会いたい人とかがあれば、聞くけど。会いたい人がいるんだったら、連れてくるし」

 勇気を出して尋ねてみた。

 「言い残したことはない。しいて言えば、ありがとう、かな? でも、毎日言っているでしょう? やりたいことと会いたい人は特にない。思いつかないし、このままで、別にいい」

 と返ってくる。

 確かに、妻は、妻の母が帰るときはもちろん、誰かが帰るときにも、「ありがとう」と必ず言う。寝ていても言う。それ以上に言いたいことは、きっと、本当にないのだろう。

 どうして「ありがとう」と、そんなに言いたいのか。実際に深く感謝をしているからか。あるいは、「ありがとう」と言える自分でいたい、つまり、最後までせいいっぱい人間らしく過ごしたいということなのか。

(同)

 

 少し思い切った言い方になるが、ある程度高い知性を持った現代人の死に際はこのようになる可能性が高いと思う。物わかりがいいのは妻ばかりではない。主人公はいざというときに延命治療するかどうかの決断を迫る医師に感情を傷つけられる。介護保険認定調査員の女性の、悪気はないがお節介な世間話に苛つく。しかしなぜ彼らがそう言うのか、主人公は十分知っている。十分な情報を持っているのだ。「美しい距離」の登場人物たちは、癌と死と終末介護を巡る情報を嫌というほど持っている現代人なのである。

 

 死が迫っていることで泣き叫んでも、それはもうどこかで読んだり聞いたりした物語の一つになってしまう。よほどの確証がない限り、医者の診断ミスを指摘して裁判を起こし、それを当面の生き甲斐にしてゆくこともできない。ステレオタイプな物語を拒絶したいという知性がある人なら、死の間際は静かなものになるだろう。それが第三の「未来を見ずに明るく生きるという方法」を示唆しているのかもしれない。しかしこの道もステレオタイプとまではいかないが、現代では十分に一般化しているように思う。

 

 山崎氏の「美しい距離」は、現代的な死の場面を捉えた純文学作品だと思う。この作品に夫や妻の秘密といった要素を付け加えれば、小説としては面白くはなるかもしれないが現実の手触りは失われるだろう。ただやはり閉塞感が強い。ステレオタイプの物語を超克しようとしてできていないのではないかと思う。この、つきつめて言えば世界全体を覆っている情報過多の閉塞感を、どうやって抜け出してゆくのかが私小説文学に求められる現代的アポリアだろう。

 

 「美しい距離」は「宇宙は常に広がっている。星と星との間はいつも離れ続ける。すべてのものが動いている」で始まり、最後にまた「宇宙は膨張を続けている。(中略)離れよう、離れようとする動きが、明るい線を描いていく」と繰り返される。この小説の始まりと終わり方は、昔ながらの私小説が季節の循環性に人間の妄念を解き放そうとした方法とほとんど変わらない。書き方を変えなければ、この堂々巡りから私小説は抜け出せないのかもしれない。

大篠夏彦

 

 

 

 

■ 山崎ナオコーラさんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■