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 二月号の巻頭カラーグラビアは『31文字の扉――詩歌句の未来を語る 対談&競詠 岡井隆×平田俊子』です。岡井さんは角川短歌で「詩の点滅」を連載しておられて毎号必ず読んでいるのですがこれまで取り上げてきませんでした。正直に言うとちょっと書きにくい雰囲気が漂っているような。岡井さんはある意味完全無欠の立派な歌人ですからね。

 

岡井 最近誰かと本音で話すということが少なくなってきているんです。ぽろっと漏らしてしまうミステイクを除けば一生懸命に頭の中でこれは言っていいか、よくないか考えて話してしまいます。(中略)

平田 気の置けない、自由に物を言い合える同年代の方はもう亡くなられたのですね。

岡井 そう。それに僕が平田さんと違うのは、年齢、短歌界で占めている位置とか色々ありますけれど、「岡井がこういうことを言った」といったことがすぐに、最近ではツイッターとか色々とそういうもので広がっていくんですよね。

平田 ツイッターは広がるのが早いようですね。

岡井 ええ。(中略)「岡井さんがこういうことを言ってたんですか-、ツイッターで見ました」なんて聞かされていくうちに、本音の話が段々消えていってしまう。話す方もつまらないし、読む方もさぞかしつまらないだろうと。僕は今「未来」という結社で編集発行人をつとめていますけれど、編集会議でも、十年前まではここでは何でも好きなことを言って良い場だと思っていたんです。でも今話すのは二十年以上若い人、時に四十年以上若い人だったりするわけで、相手の顔を見てこの人にこれを言って良いかなんてことをよく考えて話しています。

(『31文字の扉――詩歌句の未来を語る 対談&競詠 岡井隆×平田俊子』)

 

 岡井さんの同時代人の歌人はまだたくさんおられますが本音で話せる方がいらっしゃらなくなったのかなぁとちょっとしんみりしてしまいますね。また岡井さんはツイッターにご自分が話したことが流れるのを気にしておられる。ツイッターでワイワイ遊んでいるのは若い創作者が多いですがそういった人たちに対して岡井さんは絶大な影響力をお持ちのようです。岡井さん主宰の歌誌「未来」の編集会議でも二十から四十歳も年下の歌人に話をするときには発言に気を配っているとお話されているので彼が若い歌人の動向をとても気にかけていることがわかります。

 

 歌壇では口語歌人が増えていることもあってちょっと前から先行世代と新世代の対立や断絶が話題になっています。世代間の対立はいつの時代でもあるわけでそれが歌壇での利権争奪戦にならずに文学の問題に終始するならとてもいいことだと思います。一九七〇年代の前衛短歌の時代でも同じようなことが起こっていたわけです。口語短歌のムーブメントは間違いなく二十一世紀初頭の新たな短歌文学になると思いますがすべての作家が優れた口語短歌歌人として認知されるわけではありません。どの文学ジャンルでも同じですが作品集を一冊二冊出したくらいでたいそうなことをやり遂げたと思うのは甘い。生き残りをかけた文学的切磋琢磨はこれからで先行世代との議論は作家を育てる良い糧になります。

 

 だいたい短歌という伝統的定型文学を自らの表現として選んだ時点で先行世代を全否定するなどあり得ない。全否定するなら短歌ではなく別の文学ジャンルを作った方が筋が通っています。また先行世代も批判することはあっても新世代の試みを全否定することはあり得ない。まあはっきり言えば短歌に魅了された若者は貴重なわけで次世代の短歌の芽を摘むなど自殺行為です。ただ若手もいずれ年を取って批判される立場に立たされることになります。それくらいの予感は持って今の先行世代がどう反応しどう自分たちの筋を通してゆくのかをしっかり見ておくことは大事です。

 

 個人的には馬場あき子さんのように青筋立てて「あんたたちの言ってることはちっともわかんないよ」と若い歌人たちに食ってかかるお方がかなり好きです。この人は本気で対話しようとしているんだなぁと思います。また馬場さんがおっしゃっていることがわからない若い歌人もいるでしょうが内容は極めてまっとうなので十人に数人はその真意を理解する人が出てくるのではないかと思います。一番大事なのは矢面に立っても決してひるまないその強さです。わたしたちは物故作家から学ぶには文字を読むしかありませんが現存作家はその生き様を見ることができます。確かに背中で後進を引っ張るということはあります。そうした経験は後々意外なほど重要になってきます。文学には人間個々の人格を含めた本質が出ます。

 

ワレメ――

さう聞くだけで

人はある種のものを

想像し

 

或ひは微笑し

或ひは顔を赤らめる

 

歴史の神秘な谷間を想ひ

地質学の知られざる発見を想ふ

(ああ コトバは偉大だ

たつた一語で!)

大岡信

 

 こん詩を引用する気になつたのも、実は吉田隼人の歌集『忘却のための試論』(中略)を読んでゐて、次のやうな短歌にぶつかつたからだつた。

 

しろき糸ひいて性器はわたしたちみな液体と思ひ出される

うすき胸 なほうすき呼気 自慰のときにんげんでなくなることがある

をとめらの股の毛叢のふかくしてそこから破綻してゆく論理

天使さまの仮性包茎の右羽根と真性包茎の左翅

 

 「小論理学」といふ小題のもとに並んだ三十首は、スピノザの『エチカ』などを引用した詞書をもつてゐるから、きはめて論理的で、歌はいささかもいやらしくなく、エロティックではない。それでゐて、自慰(マスターベーション)のときの人体の現実には、リアルな描写もある。一言でいふと、よみにくい短歌であるが、何か去りがたい鬼気のやうなものもただよつてゐる。

 これに比べると大岡信の「ワレメ」などといふ詩は、よほど端的で、単純である。短歌はこんなに哲学的であつていいのかなどと考へてしまふ。

(岡井隆『詩の点滅――現代詩としての短歌(第二部)』連載第三十四回より)

 

 岡井さんには古くは『文語詩人 宮澤賢治』などの著作もあり現代詩に造詣が深いということになっています。でもまあよりによって大岡信さんのこんなつまらない詩をどうして選んだのかなと思ってしまいます。吉田隼人さんの短歌についても同様です。この短歌が現代風俗としては「いささかもいやらしくな」いのは当然ですが「エロティックではない」とまで言ってしまうと失敗作じゃないかしら。また大岡さんの詩は単純だけど吉田さんの短歌は「こんなに哲学的であつていいのかなどと考へてしまふ」とお書きになっているのを読むと首をひねってしまいます。まず結論ありきの読解だな。引用作は素直に読めば高校生的なウブいこと書いてるなぁと感じてしまう短歌だと思います。古典的なことを言えば中条ふみ子の方がよほどアバズレで肉体的に成熟していて彼女なりの精神的エチカがあった。

 

 でもいいのです。岡井さんは「わかるよ君の書いてることは僕は理解できるよ」とおっしゃっているからです。それはもうだいぶ前からのことのような気がします。岡井さんは短歌以外の文学ジャンルにも強い興味を示される方で『正岡子規論』なども書いておられます。そういった著作を読むとだいたいは「わかるよ僕はわかる」と書いてあります。でも子規にしろ宮澤賢治にしろそのほかの作家にしろ彼らがどういう作家だったのかは本を読み終えてもほとんどわからない。「わかるよ」と書いておられる岡井さんの姿だけが強烈な印象として残る。岡井さんが若い歌人たちの良き理解者であるのはそういったところに理由があるんでしょうね。

 

  題詠「雪」                      岡井隆

理由(わけ)なんてなくつてもいい 冬草を淡くいろどつて雪よ降り()

雪のもつ雨と(こと)なる性格をわたしはふかく愛してはゐる

わたくしの意志を(わら)つて雪はいま強い(かお)りを踊りつつある

(中略)

平田 ということは、(二首目の)「わたし」(三首目の)「わたくし」も、自分を強く主張したい「わたし」「わたくし」ではなく、とある人物という程度の軽やかな一人称ですか。両方使っておられるのは、単に音数の問題ですか。

岡井 そうですね。

平田 詩の場合は一人称の「わたし」は使っても、「わたくし」はまず使わないんです。使うときは、はっきりとした意図があります。短歌はその点自由なんですね。

岡井 そうです。

平田 二首目の「わたしはふかく愛してはゐる」は「わたしはふかく愛してゐる」だと意味が違ってきますよね。「は」がくせ者というか、「は」を入れることで作者の複雑な心情が窺える気がするのですが、ここは、音数の問題ではなく、意味の問題ということになりますか。

岡井 そうですね。

(『31文字の扉――詩歌句の未来を語る 対談&競詠 岡井隆×平田俊子』)

 

 どう読んでも二首目三首目の「わたし」と「わたくし」は岡井さんとイコールだと思います。でも「ある日の岡井さんが雨とは異なる雪の性格を愛していると思い降らなきゃいいなと思っているのに本降りになった雪を見て強い香りをお感じになった瞬間を歌になさったんですね」と言っても岡井さんは「そうですね」とお答えになりそうだなぁ。こんな懐の広さが岡井さんがの高い人望の由縁なんでしょうね。

高嶋秋穂

 

 

 

 

■ 岡井隆さんの本 ■

岡井隆の短歌塾 入門編 (角川短歌ライブラリー) わが告白

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■