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 新年号ということもあって角川短歌では「新春62歌人大競詠」の作品とエッセイ特集が組まれています。充実した特集でしたがやはりまず「特別座談会 短歌における「人間」とは何か」を取り上げることにしましょう。参加者は馬場あき子さんに永田和宏さんに小池光さん。馬場さんは歌誌「かりん」主宰で歌壇の重鎮です。永田さんは歌誌「塔」の元主宰ですが世界的細胞生物学者としても著名です。没後ますますその評価が高まる河野裕子さんの旦那さんでもあります。小池さんは歌誌「短歌人」の元編集人で埼玉の浦和実業学園高等学校で長く教鞭をとられました。この歌壇の大物お三人に若手の穂村弘さんと永井祐さんが加わっての討議です。一口に口語短歌といっても様々ですがお二人は短歌ニューウェーブを代表する若手歌人だと言っていいでしょうね。

 

 短歌に限らず俳壇・自由詩詩壇でも小説文壇でもジャーナリズムは作品と批評が両輪となって業界が活性化するのが理想です。ただ極論を言えば作品は作家がコツコツ書いて本にして出版すればいいわけです。雑誌などをペースメーカーとして活用することもできますが本を出すまで未発表でも一向にかまわない。つまりジャーナリズムは現実問題として批評中心に文学状況を作っていかざるを得ない。どうせそうなら批評で作品をさまざまに検討しそれによって新し味や問題点が浮かび上がるのが理想的な姿です。常に話題作があるわけではないので過去作品を批評するのも大事です。文学は息の長い芸術ですから現代作ばかりに視点を限定できないのは言うまでもありません。文学史は優れた作品の歴史ですが短期的に見ればジャーナリズムがそれを活性化するのです。また優れた作品がなかなか現れなくても批評がその土壌を形作ってくれることが期待されています。文学ジャーナリズムにおいては批評が花形だと言っていいでしょうね。

 

 ただ日本の戦後文学ばかりではなく二十世紀的な文学の指標が失われかつ新しい文学のヴィジョンがなかなか見えて来ない現代においてはどの文学ジャンルでも作品と批評の良好な関係は失われがちです。俳句ジャーナリズムは元々初心者指導が主ですが結社や俳風を超えた批評はもちろん真摯な過去作品の批評も出て来なくなっています。自由詩の詩壇ジャーナリズムが崩壊寸前の悲惨な状態だということは雑誌やツイッターなどをチェックすれば誰でもわかります。小説文壇でも継続的に批評を発表できるのは大物批評家に限られるようになっています。若手が批評を書いても新たなヴィジョンを提示できずそれなら過去コンテンツに精通したベテランに頼ろうという保守化傾向が強いのです。そういった中で歌壇では積極的に作品と批評の良好な関係を回復しようという試みが続いています。

 

 ジャーナリズム的に言えば「特別座談会 短歌における「人間」とは何か」は馬場・永田・小池さんというベテラン歌人らによる穂村・永井さんの若手口語短歌歌人の吊し上げ座談会という印象になると思います。口語短歌は千三百年の伝統を引きずる短歌文学において若手歌人が初めてそこから能動的に逃れようとした一連の運動だとも言えるからです。今に限ったことではないですが「「人間」とは何か」という人生訓めいた響きのあるテーマに若手歌人が反発するのは半ば必然です。図式的に言えば短歌保守派と革新派の対峙です。しかしこの特別座談会は本質的にベテランによる若手の吊し上げにはなっていません。むしろ逆です。ベテランたちが若手歌人がなにを為そうとしているのか真摯に理解しようとしています。

 

 はっきり言えば一昔前に比べて若者の精神的成熟が遅れています。エンタメ・メディアが増えその質が格段と上がったこともあり現代では文学好きの若者は特殊な人々になり始めています。その特殊さは少数であるゆえに昔ながらの特権意識を若者の中に育むわけですが以前のように文学仲間が自然と集まって若い内から切磋琢磨することが少なくなっている。純粋培養的に特権的な僕・私という自我意識を育み作品を発表してから初めて他者の厳しい批判に出会うことが多くなっています。だから若手創作者は圧倒的に批判に弱い。批判されると悪口を言われたと反発することも多くなっています。精神的に幼いのに少子高齢化だなんだかんだと言って早く大人になれとせっつかれているのが現代の若者でもあります。極論を言えばそういった大人子どもが生み出したのが口語短歌です。だけどそれは実に面白い。ベテラン歌人はそこに従来の短歌と接続する筋道を見出したいと切望しているのだと言えるでしょうね。彼らは十分優しい。それは読めばわかります。

 

◆人間が歌われている作品 馬場あき子選◆

みちのくのふかい青空 人は哭き牛はしづかに別れをしたり  小島ゆかり

立春の日の夜空飛ぶネグリジェの大群 明日の天気は晴  佐佐木幸綱

お軽、小春、お初、お半と呼んでみる ちひさいちひさい顔の白梅(しらうめ)  米川千嘉子

 

◆同 永田和宏選◆

わが妻のどこにもあらぬこれの世をただよふごとく自転車を漕ぐ  小池光

電線にいこふきじばと糞するとはつかにひらく肛門あはれ  髙野公彦

ここに来てゐることを知る者もなし雨の赤穂ににはとり三羽  永井陽子

 

◆同 小池光選◆

その音はあるときにわが身に沁みぬ地下道電車の戸のしまる音  斎藤茂吉

はたらけど/はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る  石川啄木

語りたき武川忠一は耳遠しわれも八十を過ぎしよと叫ぶ  馬場あき子

 

◆同 穂村弘選◆

入り日さすあかり障子はばら色にうすら匂ひて蠅ひとつとぶ  斎藤茂吉

あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ  永井陽子

受胎せむ希ひとおそれ、新緑の夜夜妻の()に針のひかりを  塚本邦雄

 

◆同 永井祐選◆

熱砂のなかにボタンを拾う アンコールがあればあなたは二度生きられる  平岡直子

その人は五月生まれで「了解」を「りょ」と略したメールをくれる  土岐友浩

坂沿いののぼりに一つずつふれる 祭りのあとの寺へとすすむ  佐々木朔

もうなにもわからないまま少女らは三十七分間のくちづけ  堀部恵典

 

 討議は編集部の要請で参加者が「短歌における「人間」とは何か」というテーマに沿った短歌作品を予め選びそれについて議論する形で進んでゆきます。選歌からベテラン歌人たちが若手口語歌人に配慮していることがよくわかります。馬場さんは佐佐木幸綱で永田さんは永井陽子作品がそれにあたります。小池さんは啄木短歌が配慮の選歌でしょうね。これらの歌がベテラン歌人たちが考える口語短歌の〝下限〟を示唆していることになります。それが正しいかどうかはそれこそ討議の内容によるわけですが少なくとも永井祐さんの選歌は失格です。

 

 永井さんが選んだのは最近書かれた口語短歌で「青い青いああ青い海」といった詩のような文章を読んでもジーンと感動する人が百人に数人はいるというレベルの言語表現を出ていません。もっとはっきり言えばこの歌を選んだ時点でベテラン歌人たちと話し合い相互理解する気持ちがないと意思表明していると受け取られても仕方がない。昭和の人間と文学は滅びたと言ってもいっこうにかまわないわけですがそれが作家の思想なら現歌壇と袂を分かつくらいの強い覚悟が必要です。〝これらの歌は素晴らしいのであり自分はこの道を突き進むのだ〟と性根が据わっているなら討議でベテラン歌人と徹底して対立してみせるくらいの芸は見せなければならないということです。ただしいつまでも若手でいることはできない。必ず後続世代が育ってかつて先行世代を批判したように自らも矢面に立たされる日がやってきます。それまで歌の世界で踏ん張れればのお話ですが。

 

穂村 さっき、茂吉的な「我」の時間が積み上がっていく文体と、「我」の時間が積み上がっていかなくて言語センスで作られているような歌を対置したんですが、永井祐さんがどちらに分類されるかと言うと、茂吉のひ孫ぐらいの感じの、きわめてリアリズムの人だと思えます。僕のように、言葉だけで出来るもう一つの世界が茂吉的な世界をいつか覆せるんじゃないかという幻想は永井祐さんには無い。(中略)永井さんのモチーフはリアリズムの文体の更新だと思うんです。「我」という自己像のことで言うと、短歌の中にでてくる我はみんな似ている。(中略)短歌に描きやすい短歌向きの「私」という像があって、そこからはみ出るものは無意識の内に、いい短歌にならないから捨てちゃっていると思う。それは真のリアルに反する。だから、永井さんはそこをあえて拾って短歌を作っていると感じます。

 

 もう一人の若手歌人である穂村さんの発言を取り上げると彼は大方の口語短歌は昔ながらのリアリズム短歌だと言っています。斎藤茂吉以降の歌人たちは長い伝統を意識した大文字の我=歌人という意識で歌を詠んできたわけです。口語歌人たちはその大文字の短歌文脈から外れる微細な我を好んで作品化しているということです。それは新しく見えますが意外なほど古い短歌リアリズム手法の援用ではないのかというのが穂村さんの見解です。この批評は正しい。

 

 若い歌人の間で圧倒的マジョリティを占めますが大半の口語歌人にはさしたる覚悟も思想基盤もないと思います。ポピュラリティを得られたのはそれが若い歌人の創作欲求を簡単に満たしてくれる等身大の箱(形式)だからです。それは素朴リアリズム短歌であり伝統短歌と比較すればトラック一周遅れのランナーが見せる意表を衝いた平明短歌です。今のところその新しさは若い歌人の精神的未成熟と並走しています。だから先行歌人に批判されると世代間の断絶だとか昭和の歌も歌人も滅びたといった不毛な捨て台詞を吐いて逃げをうつことになる。

 

 しかし短歌界にとって一番重要なのはこの意表を衝いた素朴リアリズム短歌が意外に面白いことです。誰もがそれに気づいている。ただこのままでは流行が一時の風俗で終わってしまうだろうという危惧があるからベテランたちはその根をはっきりさせて従来の短歌文学とマージさせようと試みているわけです。実際今口語短歌を書いている多くの歌人が十年後には歌の世界からいなくなっているはずです。では間違いなく今後も短歌界に踏みとどまるだろう穂村さんの「言葉だけで出来るもう一つの世界が茂吉的な世界をいつか覆せるんじゃないかという幻想」はどういう結果を見せてくれるのでしょうか。

 

 これについては今しばらくの静観が必要でしょうね。「言葉だけで出来るもう一つの世界」はすぐに現代詩を思い起こさせますが二〇一〇年代の自由詩の状況を見ればその賞味期限が切れているのは明らかです。ただ穂村さんが現代詩的手法を短歌に取り入れたとは必ずしも言えない。彼の短歌の言語的な空虚な側面は恐らく彼自身の資質が基盤になっている。まだ底が見えていない作家なので期待が持てます。これからの歌壇はしばらく穂村さんという若手(といってももう五十四歳ですが)を中心に進んでゆくだろうと思います。

 

右は雨、左は晴れの水平線 方降(カタブイ)という語が島にある

どんと出て海上に影を落とすなりオランダ絵画のような夕雲

一本の棒から芽が生えてマグローブの命たくまし

午後七時 七時の暗さ知らしめて空おし黙る停電の夜

デコパージュ切って切って貼ってしておればどうでもいいことどうでもよくなる

(俵万智『方降(カタブイ)』連作より)

 

 作品特集でひさしぶりに俵万智さんの短歌を読んだような気がしました。『サラダ記念日』の大ヒットから約三十年が経っています。これは一般論ですが女性作家は水のように流れに沿って変化できる。男性作家はダメですね。自分が昔書いて発表した作品と観念に自縛されて身動きが取れなくなることが多い。口語短歌で短歌に目覚めた若い作家で十年後二十年後も短歌を書き続けているのは男性よりも女性作家の方が多いような気がします。

高嶋秋穂

 

 

 

 

■ 穂村弘さんと永井祐さんの本 ■

穂村弘の、こんなところで。 日本の中でたのしく暮らす

 

■ 馬場あき子さんの本 ■

 

■ 永田和宏さんの本 ■

 

■ 小池光さんの本 ■

 

■ 穂村弘さんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■