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 十二月号では「結社特集 師を持つということ」が組まれていて坂井修一、江戸雪、黒瀬珂瀾(くろせ からん)さんが「不合理を楽しむ」という鼎談をなさっています。坂井修一さんは馬場あき子さんの結社「かりん」の編集人で情報理工学の専門家でもあります。江戸雪さんは結社「塔」所属で師は河野裕子さんです。黒瀬珂瀾さんの師は春日井建で中部短歌会所属でしたが現在は岡井隆さん主宰の「未来」に所属しておられます。

 

 俳壇と同様に歌壇でも歌人の結社離れが進んでいるようです。編集部の特集リード文には「先日の第61回角川短歌賞においても結社所属者は応募者のわずか14%であった。結社の時代は終わってしまったのだろうか」とあります。若手俳人の結社・同人誌所属率はもう少し高いと思いますがさすが歌壇と言うべきか短歌の世界では俳壇よりドラマチックに物事が進んでいるのかもしれません。

 

 ただちょっと皮肉なことを言うと若手歌人たちは結社に所属しない個=孤を選びながら他者から評価され歌人として社会に認知されるチャンスである新人賞という権威は欲しいんだなと思ってしまうところがあります。いきなりですがノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの歌詞を思い出してしまいました。

 

May you always do for others

And let others do for you

May you build a ladder to the stars

And climb every rung

May you stay forever young

 

君がいつも人のために尽くしていれば

他人も君の力になってくれる

君が星々に届くような梯子を作り

一段一段登ってゆけば

君はいつまでも若々しくいられる

 

 別にディランのファンではなく彼を神格化する気持ちなどこれっぽっちもありませんが時々とってもまっとうな歌詞を書くソングライターです。思いっきり無邪気になにかしてもらうことを期待できるのは若いうちだけです。子供ならそれが許されると言ってもいい。でもいいオ・ト・ナになれば自分が他者になにかしてあげるというのが人間のあるべき道です。結社はその選択肢の一つです。現実に即せば最も合理的な道かもしれません。

 

 もちろん結社以外の道を選ぶこともできます。あくまで個=孤として優れた作品を発表することで強い影響を他者に分け与えればいい。当たり前ですが結社だろうと個だろうとまず短歌界に寄与する仕事をするのが歌人にとって一番大事な仕事です。ただ個でそれを為すには結社が果たしてきた役割を超える高い能力が必要でしょうね。

 

坂井 結社って「虚」なんですよね。虚の空間を共有していてやりとりをしているという感じ。岡倉天心が日本の「座」とはそういうものだと言っています。SNSも、結社もそういう空間、そういう余裕があれば、上手にやってけるんじゃないかな。

黒瀬 結社を知らない人がもっている結社のイメージは「上意下達」ではないかと。年功序列とか、先輩が歌集を出さないと後輩が出せないとか。そういう結社は今後、淘汰されていくと思います。結社もまたドラスティックに動いていくことが求められている。

(鼎談「不合理を楽しむ」坂井修一、江戸雪、黒瀬珂瀾)

 

 結社が存在するのは歌壇と俳壇だけです。明治時代には尾崎紅葉の硯友社や北原白秋や吉井勇らの「スバル」など小説や自由詩の世界にも結社的集団がありましたがその後消滅しました。坂井さんがおっしゃっているように短歌・俳句が「座」の文学であることが結社が存続している理由です。ただ歌壇の結社は俳壇に比べて概して拘束力が緩いと思います。これは端的に言えば短歌と俳句の長さの違いから生じています。

 

 俳句は五七五に季語の定型です。自由律や前衛俳句など形式に意義を唱える俳人もいますが俳句界の総意として五七五+季語定型は揺るぎないものとしてあります。これを守ると表現の幅は非常に狭くなります。もちろん言葉自体は無限なわけでその取り合わせで限りなく多様な俳句を作ることはできます。しかし日本語の単語は二文字三文字が多く残りは助詞などで埋めることになります。意味的な切れを考えても俳句では五/七五・五七/五・五七五の三通りしかありません。必然的に表現パターンは限られてきます。

 

 単純化すればこの表現パターンが〝俳風〟つまりある俳人や結社のオリジナリティとされることが多いわけです。しかし俳風の違いはほぼインサイダーにしか理解できない微細なものであり微細であるからこそ結社同士(異なる俳風同士)のせめぎ合いが激しくなります。はっきり言えば俳壇では結社同士は仲が悪い場合が多いですが部外者から見るとなにを角突き合わせているのかさっぱりわからないことがほとんどです。

 

 俳句に比べると短歌の形式的拘束力が弱いのは言うまでもありません。季語が必要がないのはもちろん五七五七七のどこで切ってもかまいません。俳句は文語中心にならざるを得ないですが短歌では文語と口語調が現在では拮抗し始めています。字余りなどの破調に対しても鷹揚です。実際鼎談に参加されたお三方は結社所属ですが何がなんでも結社にとはおっしゃっていません。むしろ黒瀬さんは「上意下達」や「年功序列」の古い体質の結社は今後淘汰されてゆくだろうと発言しています。では結社に所属するメリットは何なのでしょうか。

 

黒瀬 (前略)あえて結社に入るのは、結社にしかないある種の暴力的とも言える選、自分の意図とは違うところで歌を読まされ、時には削除されるような、斟酌しない批評を求めているからでは。自分の歌を相対的に見たいという人が結社を選ぶと思います。

坂井 SNSはオープンなようですがモザイク状。コミケのような小さい世界がたくさんあるような感じで、そこだけでやっていると自閉的な空間しかできない。まして短歌の千三百年の歴史とつながりようもない。結社に求めるのは、きっとそういう大きめの長めの広がりなんでしょう。

(同)

 

 少し乱暴にまとめると①「自我意識をへし折られること」と②「短歌伝統を意識すること」が結社に所属するメリットだということになります。またこの二つはどこかで繋がっています。万葉集から数えれば短歌は千三百年の伝統を持つ表現です。俳句は芭蕉からだと約四百年の歴史を持ちます。この長い年月の間にあらゆる言語的な試みが為されてきました。たとえ天才的と言われるような個の能力をもってしてもそう簡単に短歌・俳句の本質を変えることができないのは当然です。特に短歌の場合はそうです。

 

 短歌はその精神が日本の古代にまで繋がっています。少し誤解を招くような言い方になりますが比較すれば俳句の根はやはり浅い。俳句では平安時代にまで遡る日本の古典を知る必要は本質的にありません。江戸近世以降の精神文化を理解するだけで必要十分です。しかし形式的に緩く混沌とした短歌はいまだに平安期以前の日本文化の混沌とした精神状況の鏡像です。それは短歌界が佐佐木信綱や折口信夫や馬場あき子といった古典文学の碩学を生んでいることからもわかります。また伊藤左千夫や長塚節や岡本かの子といった文学史に残る小説家も輩出しています。貶めるわけではないですが芭蕉以降に俳句は圧倒的ポピュラリティを得て今も短歌人口を遙かにしのぎますが俳句と呼ばれる狭い領域に閉じた芸術だと言えます。

 

 つまり短歌の形式的拘束力の緩さはその奥深さに連結しています。俳人は一つの俳風を確立すると職人のようにその可能性に専心する傾向が強い。もちろん歌人でも同様のことは起こり得ますが年齢によってあるいは知的興味の広がりによって様々に変化してゆくことが可能です。結社というか座の集団的な知はその端緒になり得るわけです。思い込みを含めた個の自我意識をへし折られることが伝統に裏付けられた多様性を意識するきっかけになることは多いでしょうね。

 

坂井 お稽古事は稼げるけど、結社は稼げない(笑)。

黒瀬 むしろ出て行く(笑)。経済性だけを考えたら、入らない方がいいけれど、こういう世の中で反経済的な空間があるというのは、文化の層を厚くする。

江戸 非効率的なものから得られるものは計りしれない。

坂井 文学の本質ですよね。人間の不合理性に分け入るというのは。

(同)

 

 俳壇なら結社に入ればお友達が増え句会などで楽しい旅行もできますといった惹句を並べるところでしょうが「経済性だけを考えたら、入らない方がいい」「文学の本質ですよね。人間の不合理性に分け入るというのは」といったディメリットを感じさせる言葉が出るのも歌壇ならではかもしれません。ただ不合理な苦しさはどんな場合でも短歌について回るのではないでしょうか。俳句では禅的無常を前提にした諧謔(笑い)がしばしば表れますが誰が見たって短歌が得意とするのは孤独や嫉妬や怒りといった人間感情の暗い側面――つまり〝人間の不合理性〟です。

 

 近頃若い人たちを中心に短歌人口が増えているのは口語短歌の隆盛と深い関係があります。短歌と言ってすぐに思い出すような百人一首的な伝統的な知とは無縁に簡単に自我意識が表現できるジャンルとして注目を浴びているわけです。またそういった場合に多くの人が想起するのは石川啄木などのポピュラリティの高い短歌でしょうね。再び短歌にポピュラリティを与えることが一連の口語短歌の大きな目的の一つであることは確かだと思います。

 

 ただ啄木は自業自得的とはいえ社会的な辛酸を舐めています。啄木のような絶望にまで至るのは至難の業です。また啄木が望んだことではないですが極論を言えばその絶望は夭折とセットです。長い人生を断ち切られたから絶望が際立って見える。つまり純な絶望や孤独を普遍的ポピュラリティと措定してもすぐにメッキが剥げてしまう。生きている限り人間はずっと絶望や孤独だけを友としているわけにはいかない。どこかで現代的な長い人生と折り合いをつけて中年から老年にまで至る人間の生の不合理と絶望を表現してゆかなければならなくなります。

 

すすきの穂ふるわせるのはかげ踏みで踏まれた影の幽かな悲鳴

紐つきの財布取り出し少年が買う流星の尾を撃つ権利

戦火抱きつくした天のみぞおちに花火の昇りゆくおとひびく

すぐ次を欲しがるもっと華やかでうつくしいひかりの玉砕を

みずの面をながれゆく紙ひこうきの、だれの恋文だったのだろう

すきということをつたえる語彙ほどの硝子の貝を掬うてのひら

宇宙の終わりもこんな静かな残響のなか それぞれに帰りはじめる

交通整理の笛に呼ばれて麦の香の軍靴の霊が夜を廻りだす

信号をわたる少女が風なかに手放す金魚になる素質など

勝つまでは(あるいは負け尽くすまでは)止まない夢の打ち上げ花火

(鈴木加成太 第61回角川短歌賞受賞第一作30首「夢の花火」より10首)

 

 第61回角川短歌賞を受賞された鈴木加成太さんの最新作です。受賞作は就職活動の不安をテーマにした連作でしたが今回は花火大会を見た体験が歌になっています。受賞作よりも言語的に完成度の高い作品になっています。しかし危うさは「紐つきの財布取り出し少年が買う流星の尾を撃つ権利」といった修辞を尽くした作品に表れているでしょうね。この修辞的探求に進んでゆけば現代詩が陥ったような空疎な言葉遊びの世界になってしまう危険性があります。

 

 また「すぐ次を欲しがるもっと華やかでうつくしいひかりの玉砕」や「勝つまでは(あるいは負け尽くすまでは)止まない夢の打ち上げ花火」といった花火と戦争と敗北が結びついた一種の〝喩〟はそれほど説得力のあるものではありません。苦し紛れに重い主題を〝引用〟したように読めます。

 

 一定以上の力を持った作家にとって新人賞は通過点に過ぎません。また若くして頭角を現す作家がずっとその位置を維持できるわけでもない。じっくり考えて遅れてやって来た無名だけど力のある作家にあっさり追い抜かれることだってあります。抽象表現に流れやすい個の孤独は社会の理不尽や残酷さを知らない無垢なものでもあります。作家が自己の〝無垢で傷つきやすい時代〟を白鳥の歌として書き残すのは大いに結構です。しかしそれを過ぎたら次のステップに移らなければなりません。多くの現代人にとって人生はうんざりするくらい長いのです。

高嶋秋穂

 

 

 

 

■ 坂井修一さんの本 ■

 

■ 江戸雪さんの本 ■

 

■ 黒瀬珂瀾さんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■