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 新年号では飯田蛇笏(だこつ)と龍太親子の大特集が組まれている。龍太のご子息で、山梨で蛇笏・龍太が暮らした江戸末期築の居宅・山廬(さんろ)に今も住み、その維持管理に当たっておられる飯田秀實氏がエッセイを書いておられる。

 

 飯田蛇笏というと、厳格な家長と捉えられることが多い。(中略)しかし、実際の蛇笏像は必ずしもその表現が当てはまらないところがある。

 それは蛇笏ではなく本名の「武治(たけはる)」として生活するときの姿である。我が家では昔から、男の作業がかなり多い。その一つが障子貼りである。(中略)このときの祖父は、早朝からやる気満々である。(中略)洗った桟を庭で干し、祖父が障子を貼る。(中略)この動きが見事というほかない。糊を刷毛で素早く引き、さっと紙を貼る。美しく貼るために糊の粘り具合が重要になってくる。その早さに、母や祖母が洗うのが間に合わなかったほどである。(中略)

 龍太の特技の一つが「竹箒造り」である。(中略)真竹の適当な太さのものを柄に使い、野晒しにした孟宗の枝を使って箒を造ってゆく。(中略)微妙な力加減が必要で、左手の動きが速くなる。

 父の作った竹箒は本当に使いやすかった。出入りの庭師が「是非」と譲り受けるほどである。昭和四十年龍太の母が亡くなった時の句。

 

 生前も死後もつめたき箒の柄 龍太

 

 この句の箒は龍太手造りの竹箒である。

 障子貼りも、箒造りも私が受け継いでいるが、どちらも両人の技には到底及ばない。

(「蛇笏、龍太の手仕事」飯田秀實)

 

 飯田蛇笏、龍太親子の俳句の真髄が、手に取るようにわかる良いエッセイだと思う。また飯田家の血筋とでも呼ぶべき精神が、脈々と受け継がれていることも伝わってくる。蛇笏、龍太の俳句は平明で素直だが力強い。一心不乱に、だが慣れた手つきで作物や日用品を作ってゆく「手仕事」のようだ。どう貼れば障子が一番美しく見えるのかわかっている。単純だが機能的な箒の作り方を知っている。蛇笏、龍太親子の俳句は、身体に染みこんだしなやかな動きのようである。

 

 蛇笏は明治十八年(一八八五年)に山梨県東八代郡五成村で生まれた。飯田家は当地の大庄屋だった。早稲田大学英文科に入学し文学者を志すが、実家の命で中退して家業を継いでいる。蛇笏の青春時代は日本文学の激動期だった。明治十年代、二十年代の混乱した状況はおさまり、大正・昭和文学の礎になる作家たちが精力的に活動し始めた。俳句界では明治三十五年(一八六七年)に子規が死去し、高濱虚子と河東碧梧桐の俳風が対立して袂を分かつという事件が起きた。虚子と碧梧桐は蛇笏より一回りほど年上だが、同世代にも綺羅星のような若い文学者たちがいた。蛇笏は東京で若山牧水や日夏耿之介らとも交流を持った。

 

芋の露連山影を正しうす

たましひのたとへば秋のほたるかな

一鷹を生む山風や蕨伸ぶ

をりとりてはらりとおもきすすきかな

水替へて鉛のごとし金魚玉

つりそめて水草の香の蚊帳かな

高浪にかくるる秋のつばめかな

戦死報秋の日くれてきたりけり

子のたまをむかへて山河秋の風

にぎやかに盆花濡るる嶽のもと

雁仰ぐなみだごころをたれしかる

たまきはるいのちをうたうにふゆごもり

山深く生きながらふる月の秋

誰彼もあらず一天自尊の秋

飯田蛇笏

 

 蛇笏は大学時代に「ホトトギス」に投句を始めたが、虚子が小説に専念するために俳壇を離れたので、友人の牧水が刊行した「創作」などに俳句を発表するようになった。しかし大正二年(一九一二年)に虚子が俳壇復帰すると「ホトトギス」を主な発表場所にした。すぐに頭角を現し大正初期の「ホトトギス」を代表する俳人となったので、虚子系(「ホトトギス」系)の俳人である。その作品は有季定型の端正なものだし、碧梧桐や萩原井泉水らの新傾向俳句には批判的だった。ただ蛇笏俳句には虚子のような都会的軽味がほとんど感じられない。蛇笏が「ホトトギス」の俳人というより、大正七年(一九一七年)創刊の主宰誌「雲母」の俳人として記憶されているのは、虚子的有季定型俳句と蛇笏のそれが、質的に決定的に違う面を持っているからだろう。

 

 「をりとりてはらりとおもきすすきかな」「水替へて鉛のごとし金魚玉」のように、蛇笏俳句は写生だが、そこには押し込められた重い情念が感じられる。東京で文学者になる夢をいったん諦めて、故郷で家業を継がなければならなかった鬱屈のせいかもしれない。また蛇笏には四人の息子がいたが、長男と三男は戦死し次男は病没した。それも中年の蛇笏の心に重くのしかかっただろう。ただ蛇笏俳句が現実の出来事と密接に結びついているとも言えないのだ。「たまきはるいのちをうたうにふゆごもり」にあるように、精神が内へ内へと籠もってゆくような重さがある。その重さがあろ瞬間に、諦念ともまた違う静謐な心性にふっと抜ける。「山深く生きながらふる月の秋」「誰彼もあらず一天自尊の秋」には、自足した籠りの精神のようなものが感じられる。

 

春の鳶寄りわかれては高みつつ

露の村墓域とおもふばかりなり

鰯雲日かげは水の音迅く

いきいきと三月生る雲の奥

雪の峯しづかに春ののぼりゆく

一月の川一月の谷の中

かたつむり甲斐も信濃も雨のなか

白梅のあと紅梅の深空あり

秋の蟬生死草木と異ならず

葱抜くや春の不思議な夢のあと

短日やこころ澄まねば山澄まず

冬茜かの魂は闇の中

去るものは去りまた充ちて秋の空

なにはともあれ山に雨山は春

千里より一里が遠し春の闇

飯田龍太

 

 龍太は大正九年(一九二〇年)に蛇笏の四男として生まれた。國學院大學文学部に入学して折口信夫に学んだ。龍太も兵隊に取られるところだったが、結核を病んでいたので免除されたのは親子にとって幸いだった。昭和三十七年(一九六二年)に蛇笏が七十七歳で没すると、庄屋の家督を継ぎ結社誌「雲母」の主宰となった。

 

 前回書いたように、結社の血縁継承というとなにやら利権の臭いがしてしまうが、蛇笏・龍太親子の場合はほとんどそれが感じられない。その理由は親子二代ではっきりとその俳風が定まっているからだろう。蛇笏が切り開いた俳風は、龍太という完成者を必要としていたということだ。ただ龍太は平成四年(一九九二年)、七十二歳の時に自らの手で「雲母」を終刊した。俳句をやめて引退したのである。これも龍太らしい。平成十九年(二〇〇七年)に八十六歳で亡くなった。

 

 蛇笏に比べると龍太の俳句は淡い。「春の鳶寄りわかれては高みつつ」などは純粋写生句のようである。ただ「かたつむり甲斐も信濃も雨のなか」などの句には写生句を超えた実感がある。蛇笏の籠りの精神が、その重さを抜き取られて希薄に偏在しているようなのだ。この龍太俳句の希薄さは、そこに至り着こうとして、様々な要因で最後まで作品から強い自我意識を消し去れなかった蛇笏の理想でもあったように思う。「去るものは去りまた充ちて秋の空」では何が去り、何が充ちているのだろうか。具体物はなんでも良いのだ。この世の具体物は、現象は、そこに充ち、そして去ってゆく。空虚な充実とでも呼ぶべき空間が拡がっている。それはなんと俳句芸術によく似た光景だろう。この空間の主は龍太であって龍太ではない。

 

 龍太は「個性的な俳句に一流のものは存在しない。言い切ってもいい。一代の名句と称する作品は、ことごとく個性を超えたところに位置している」と言った。それはまったく正しい。ただ文学者のこういった発言は、常にその実質が伴っているかどうかが検証されなければならない。長い伝統を持ち、数々の優れた作家を輩出して来た俳句の世界では、それらしいことを言おうと思えばいくらでも言える。だがたいていの場合実質が伴わない。龍太俳句では、芭蕉や蕪村ですら残しておいた自我意識の発露が、ほとんど綺麗に消え去っているように思う。淡いのだがいつまで読んでいても飽きない。

 

 蛇笏・龍太俳句では「土着性」ということがしばしば言われる。蛇笏俳句の重さには、なるほど地に根を張ったような強さがある。しかしそれは蛇笏正統後継者である龍太俳句では、ほとんど宙に抜けるような希薄さになる。山梨の山中で家を守って生涯を終えたからそれが可能だったわけではあるまい。そこには俳句文学への深い理解がある。

 

 血縁や師系を問わず、俳句における優れた詩精神の継承は、俳句文学が作家の自我意識だけでは太刀打ちできないものだということを示している。問題は常に俳句〝文学〟としての詩精神の継承なのだ。蛇笏と龍太の俳句を読んでいると、俳句文学の奥深さが迫ってくる。

岡野隆

 

 

 

 

■ 飯田蛇笏・龍太の本 ■

飯田蛇笏全句集 (角川ソフィア文庫) 新装版 飯田龍太 自選自解句集

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■