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『カイロの紫のバラ』(1985 アメリカ映画)

監督 ウディ・アレン

 

 

 定番の色、と呼べるものがいくつかあるとして、赤は間違いなくその一つであろう。美しい連想を引き起こしやすい色ではあるが、英雄の色でもあるから、少年も赤を嫌がらない。美と力強さを兼ね備えたこの色はしかし、否それゆえに、死に直結した色でもある。元気で、楽観的で、自信満々な様子を形容する英語に sanguine があるが、sang はもちろん血の意味だから、これは中世生理学の「多血質」に端を発している。日本語では「血色がいい」のは喜ぶべきことだが、「血の気が多い」のは迷惑である。何にせよ、真赤な血が滾れば力も湧くが、うっかり流してしまえば命が枯れる。表裏一体、両極の同時的な発露を示唆するあのファルマコンの概念は、血にもまた当てはまるわけだ。

 

 赤をもっとも効果的に使った映画のひとつにイングマール・ベルイマン監督の「叫びとささやき」(スウェーデン、1972)がある。淡い色彩で撮影されることの多かった巨匠のそれまでの作品と違い、画面は真紅で溢れている。それも花々や太陽というわけではなく、三姉妹の暮らす屋敷のなかが、壁から床、それに調度品まで、とにかく真赤なのである。三姉妹は年齢に似合わぬ真白な服を着ているが、実際のところ彼女たちの精神世界は傷にまみれており、所構わず血を噴き出している有様なのである。

 

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『叫びとささやき』(1973 スウェーデン映画)スチール

監督 イングマール・ベルイマン

 

 三姉妹のうち、アグネスは癌で余命いくばくもない。マリアとカーリンはその死を看取りに屋敷を訪れたはずであったが、二人は果たしてアグネスの快癒を望んでいるのか、はたまた死を願っているのか判然としない。淡々と、しかし愛情深くアグネスを看病するのは幼い娘を亡くした経験を持つメイドのアンナだけである。そんな静かで暗い日々のなか、姉妹はそれぞれに人生を振り返る。そこで浮かび上がるものが幸福な面影であるとは言い難い。結婚生活の破綻、母親とのすれ違い、自傷行為……。だがこの世を去るアグネスは、ただ人生を美しい、豊かなものとして祝福するのである。

 

 叫びは絶望であり、ささやきは愛である、とは言い切れまい。快哉を叫ぶこともあれば、小さな声で呪うこともある。いずれにせよ感情が音声に乗るとき、ひとは口を開く。口のなかは真赤である。ギリシャの創世神話によれば、宇宙の原初に存在したものはただカオスであった。「あらゆる物事が未分化の状態」を示すこの語が「混沌」の意味で使われていることは周知の通りだが、その語源が「あくびをする」を意味する動詞「カスケイン」と同根であるならば、世界は二つに開いた口の真赤な内奥から飛び出してきたことになる。

 

 何もギリシャばかりが文明ではないから、別の神話に目を向けてみてもいい。レヴィ=ストロースは『神話と意味』のなかで、双生児と兎の関係に注目している。あるネイティブ・アメリカンの神話では、兎の鼻と唇が割れているのは、兎が頭上を通った娘の性器を見上げて卑猥な冗談を言い、怒った娘が兎の鼻っ面をしたたかに踏みつけたからだという。レヴィ=ストロースは、この兎は「未分化の双生児」という意味を担っている、と分析する。というのも、もし兎の割れ目が全身をめぐれば、兎は二匹になるからである。さらに兎を踏んづけた娘には妹がおり、彼女たちはそれぞれ別の男に騙され、同時に男子を出産する。もちろんこの二人は従兄弟ということになり、近代医学の定義するところの双生児ではないが、宿命を同じくするという点では双生児である。

 

 この二重の双生児の神話でも、赤は重要な配色となっている。兎の唇はほのかに赤く、双生児を産むことになる娘の性器も、その奥にひろがる道も赤い。もっと身近な日本神話を見ても、伊邪那岐と伊邪那美という鏡写しの兄妹が交わり、神々と国とが産まれているわけだが、伊邪那美が命を落としたのは、その赤い産道を、これまた赤い火が通り抜けたからであった。そして黄泉の国での悲劇の一幕のあと、伊邪那岐の両目から、今度は太陽たる天照と、月たる月夜見という、もう一対の双生児が誕生するのである。どうも赤い裂け目とそこから誕生する双生児というイメージは、世界中のあちらこちらで創造という行為の根元に結びつけられているようだ。

 

 創造というのは世界を出産することと同じだから、むろんその過程が快楽を伴うこともあり得る。例えばスタンリー・キューブリックの「時計じかけのオレンジ」(1971、英・米)の主人公、アレックス少年にとっては、暴力と性行為こそが世界であった。麻薬のたっぷり入った白い牛乳を飲み干して、夜な夜な被害者に真赤な血を流させることこそ、彼にとっての創世なのだ。ところが強盗殺人で逮捕された彼は、実験的な治療法によって暴力と性に対する拒絶反応を植えつけられてしまう。おまけに心酔していたベートーベンの第九まで受けつけなくなり、聴くと吐き気を催す始末である。

 

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『時計じかけのオレンジ』(1971 アメリカ映画)ラスト・シーン

監督 スタンリー・キューブリック

 

 一時は受難者のようにすべてを諦め、自らの暴力の代償を払うアレックスではあったが、治療の効果が永続することはなかった。というのも彼に治療を施したほかならぬ政府が、支持率の低迷を恐れて今度は「治療からの治療」を推し進めたからである。つまり世界が、ふたたびアレックスに世界を創ることを求めたのだ。そしてラスト・シーン、天上の歓喜の声をとりもどした第九が大音響で鳴りわたるなか、性行為に励む自分を想像しながら、アレックスはひさしぶりに絶頂を迎える。そこで「僕はたしかに癒ったとも!」という台詞とともに、画面は赤一色に切り替わるのである。(ところでこの幕切れは、三島由紀夫『音楽』を想起させはしないだろうか。)

 

 ここでの赤は暴力にまみれた世界の再生を象徴していると言えようが、日の出と日没によって世界が生まれては滅ぶように、そもそも誕生と終焉とは同義である。澁澤龍彦はことのほか愛した博物学者プリニウスの最期を描いた「火山に死す」のなかで、主人公にこんなことを考えさせている。

 

もしも火山活動が大地の情欲の発作だとすると、これに巻き込まれて死ぬのもわるくないと自分が考えるのは、要するに、自然のエロティックな活動に、せめて万分の一でも自分が参加したいという気持のためではないだろうか。できることなら淫乱な自然の女神のふところにいだかれて、おのれの生を終焉させたいと思う気持のためではないだろうか。

 

 こうしてプリニウスは夢を見るようにウェスウィウス火山の噴火に巻き込まれて死ぬのである。おそらく世界の「始まりの穴」であるところの真赤な火口を目指して……。

 

 そういえば映画というものがスクリーンの外の世界へとやって来るための「産道」である劇場もまた、やわらかい天鵞絨にくるまれた真赤な空間である。その静かな場所で溶岩のように鳴動する芸術と、居並ぶ観客の人いきれが醸成する幻惑は例えばヴァレリーも『テスト氏との一夜』で描いているが、映画においては劇場の表象はむしろ華々しい祝祭の形をとることが多いようだ。パリのキャバレーを舞台に、青年作家の夢を酩酊と狂騒のうちに花開かせるバズ・ラーマン監督の「ムーラン・ルージュ」(米、2001)などはよい例であろう。何しろこの劇場では八の字ヒゲを生やした満月の下でエルトン・ジョンの曲が熱唱され、ロートレックが大喝采を送るのである。

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『ムーラン・ルージュ』(2001 アメリカ映画)スチール

監督 バズ・ラーマン

 

 だが劇場の「あちら側」の華やかさは、ときに「こちら側」の寂しさを引き立たせもする。ウディ・アレン監督「カイロの紫のバラ」(米、1985)の主人公セシリアはいつも孤独に青ざめた憧れの面持ちで銀幕のなかの考古学者を見つめているが、映画を観る人間なら誰しも彼女に共感せずにはいられないだろう。劇場の「赤」の発色がよくなればなるほど、観客はわが身の「青」に思い当たって戸惑う。

 

 映画鑑賞が常にそのように感傷的な旅であるとは言わないが、赤と青は確かに好対照をなしている。筆者の知っているある哲学教師は、実験と称して幼い息子に「赤」と「青」を逆に教え込んだ。そして「ほらパパ、夕日が真青!」とはしゃぐの聞いて満面の笑みを浮かべたそうである。おそらくその世界は生まれも滅びもせず、ただいつまでも眠るだろう。

大野ロベルト

 

 

 

 

 

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