生誕三百年記念 若冲

於・東京都美術館

会期=2016/04/22~05/24

入館料=1300円(一般)

カタログ=3000

 

 

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『伏見人形図』 紙本着色 一幅 縦四一×横五八センチ 江戸時代(十八世紀) 国立歴史民俗博物館蔵

 

 

 今回の伊藤若冲(じゃくちゅう)展は、よく言えば盛り上がっていましたが、ちょっと異常じゃなかろかという過熱ぶりでもありました。僕は展覧会が始まってすぐに午前中に見に行ったのだが、それでもかなりの人出だった。そうこうするうちに、展覧会も最後の方になってたまたま東京都美術館の前を通りかかったら、警備員の方が五時間待ちのプラカードを持って立っていた。観覧希望者が列をなしてぐるりと美術館を取り巻いていたので、相当に大変だったろうと思う。

 

 真作を見るのは大事なことだが、ここまで混雑するとちゃんとした鑑賞は難しい。簡単ではないが、チケット販売までネットを活用して来場者数を予測すれば、観覧予約と一定時間での観客の総入れ替えもできるかもしれない。ネットを利用しない高齢者の方などはだいたいパーセンテージが把握できる。その枠を開けておいて順次見てもらえばいい。若者だって五時間待ちはきつい。昼に並んでも入館は閉館間際の夕方になってしまう。

 

 展覧会の目玉は『釈迦三尊像』三幅と『動植綵絵(どうしょくさいえ)』三十幅の同時展示である。若冲は明和七年(一七七〇年)十月に、最終的にこの三十三幅を相国寺に寄進した。若冲五十五歳(数え年)のことである。宝暦八年(一七五八年)頃から十年余の歳月をかけた渾身の連作だった。明和七年は父親の三十三回忌に当たり、敬虔な仏教徒だった若冲は、父母と自身の永代供養のために三十三幅を寄進したのである。三十三幅は長らく相国寺に秘蔵されてきたが、明治二十二年(一八八九年)に『動植綵絵』三十幅のみが皇室に献上されることになった。それに対して皇室から金一万円が下賜された。

 

 相国寺は明治初年代の廃仏毀釈の影響などで荒廃していた。それに加え、ボストン美術館の東洋美術コレクションの基礎を作ったビゲローやフェノロサらが、御維新の混乱で旧家や寺社仏閣の古刹から次々に売りに出される仏像や仏画、日本画などを買い漁っていた。ビゲロー、フェノロサの審美眼は確かだったが、骨董商はもちろん、岡倉天心、蜷川式胤(にながわのりたね)、柏木貨一郎ら稀代の目利きがその蒐集を後押しした。若冲の『動植綵絵』も海外流出するところだったが、皇室に寄進することで日本に留まることになった。寄進といっても実質的な売却である。あくまで形式上の話だが、天皇家が臣下である日本国民から美術品などを購入することはない。献上という形を取り下賜という形で代価が支払われる。皇室からの下賜金で、相国寺は決定的な破綻を免れることができた。

 

 僕は二〇〇九年に東京国立博物館で開催された『御即位20年記念 特別展 皇室の名宝-日本美の華』で『動植綵絵』三十幅を初めて見た。閉館時間近くに行ったが人はまばらで、ほとんど一人占めするような形で『動植綵絵』を堪能することができた。しかしここ七年ほどで若冲人気は恐るべき勢いで上がっていった。『釈迦三尊像』と『動植綵絵』が美術館で一挙展示されるのは久しぶりだが、若冲展は滋賀のMIHO MUSEUMコレクションなどを中心に近年何度も開催されている。今回の展覧会でもまだ一度も実物を見たことのない作品は展示されていなかった。

 

 一人の作家の展覧会が、これほど立て続けに開催されることはほとんどない。特に公設美術館の場合、人気があるからといって、何度も同趣向の展覧会を開くわけにはいかない。美術展も相当なお金をかけた興行には違いないが、バランス良く様々な美術を世の中に紹介してゆく必要がある。数十年、時には百年に一度しか回顧展が開催されない作家も多いのだ。また展覧会は単に作品を集めるだけでなく、それまでの研究成果が発表される場でもある。

 

 ある作家や美術に関する考察は、普段は大学の紀要論文などに発表される。美術展ではそのような仕事で実績を積んだ碩学が解説を手がける。まあ、だから美術業界に向けた文章になりがちで、展覧会で感銘を受けて図録を買って帰っても、中の文章を読んでうんざりし、パラパラ写真を眺めるだけになってしまったりするわけだ。しかしそれが後の研究の基礎になるのも確かである。古文書や科学調査に基づく調査報告が美術展図録解説の基本である。

 

 若冲に即せば、立て続けに展覧会が開かれていることもあって、今回の展覧会でも新たな研究成果はほとんどなかった。そのため図録もリラックスした内容になっていた。美術展図録としては珍しく、一般の美術好きの文章も掲載されていた。美術の専門家にとってはあまり燃える展覧会ではなかったということだ。すごく楽しめるのだが、誰もが知っている大ヒット曲ばかり演奏する、往年のロックスターの凱旋公演といった感じだったかもしれない。

 

 また東京都美術館の若冲展に合わせ、テレビでは盛んに若冲関連番組が放送されていた。それなりに楽しめたが、若冲に対する「天才」という賛辞の連呼はちょっとうんざりするものがあった。天才は生まれもって天から与えられた、ずば抜けた才能を持つ人といった意味である。しかし江戸時代では老年に当たる五十五歳で『釈迦三尊像』と『動植綵絵』を仕上げた若冲は、やはり努力の人だろう。また天才は人を判断停止状態にしてしまう厄介な賛辞でもある。どんなに完璧に見えようと、人が作り出した作品は無条件で崇め奉られるべきものではない。

 

 ボストン美術館が所蔵しているビゲローコレクションは優品揃いだが、若冲の同時代人である曾我蕭白(そがしょうはく)の蒐集点数が目立つ。ボストンの蕭白コレクションは世界最大なのだ。また戦後になるが早くから若冲作品を集め、世界最大の若冲コレクターになったのもアメリカ人のジョー・プライス氏である。

 

 江戸の天明時代を頂点とする京都画壇を代表するのは円山応挙、長沢芦雪、曾我蕭白、伊藤若冲の四人の絵師である。このうち絵画流派としてその画法が引き継がれたのは応挙の円山四条派だけだ。門弟らの努力もあり、日本画の世界では最近まで応挙が特権的位置を占めていた。しかしアメリカ人コレクターの視線は違っていた。早くから強烈な自我意識を表現した蕭白や若冲に惹きつけられていた。芦雪は元武士で応挙門だが若冲は町人だった。蕭白はその出自すらはっきりしない。また若冲や蕭白にも門弟はいたはずだが、彼らの門人と呼べる絵師の作品は伝わっていない。

 

 単純化して言えば、円山応挙は日本画の王道をゆく絵師だった。狩野派はもちろん土佐派や南蘋(なんぴん)派(ヨーロッパ絵画の影響を受けた中国画)、水墨画、南画などをまんべんなく吸収して新たな画法を生み出し、貴族や高級武士、裕福な町人の求めに応じたあらゆる画題を描いた。応挙のような大家が画壇の中心にどっしり腰を据えていたからこそ、若冲を始めとする画家たちは心おきなく独自の仕事に没頭できた。

 

 もちろん中には蕭白のように応挙への対抗心を露わにする絵師もいた。蕭白はデザイン画が欲しいなら応挙に頼め、本物の絵画が欲しいなら自分に依頼せよという意味のことを言った。しかし自信があるにせよ、その言葉が本物かどうかわかるには時間がかかる。また蕭白の言葉はやはり不遜である。職能を持つ絵師とはいえ、今も昔も現世で成功するためには一定の良識が求められる。絵を見ても容易に想像できるが、蕭白は相当に剣呑で破天荒な人だったはずだ。応挙は後進の育成も含めて高い社会性を持つ絵師だった。

 

 日本の画家や美術愛好家たちは、後世への多大な貢献も含めて応挙の画業を高く評価してきた。芦雪や蕭白、若冲らは奇想の画家と呼ばれたりしたが、それは応挙の本流に対する傍流という意味でもあった。この評価は今後も変わらないだろう。ブームは熱しやすく冷めやすい。一通り若冲作品に目が馴染んだら、応挙らの絵が新鮮に見えてくるはずである。

 

 極論を言えば、現在の若冲ブームは、若冲を前後の絵画史から切り離すことで生じたものである。まだ日本画にあまり知識がなかった時期にアメリカ人コレクターらが感じたように、若冲の独創性を彼一人の個性(自我意識=天才)に帰している。本当の絵画好きならその考えは徐々に修正されてゆくだろう。ただいわゆる〝若冲天才論〟が若い人たちを中心として、わたしたちの現代から生まれた切なる希求であるもの確かである。

 

 情報化時代では〝新しさ〟を創出するのがとても難しい。現代では誰もが新しさは、多かれ少なかれ過去コンテンツをモディファイしたものだということを知っている。だがパッチーク的な新しさはすぐにメッキが剝がれてしまう。かといって過去コンテンツが生まれた理由を本気で探るには、忍耐強い努力が必要だ。また二十世紀の前衛アートはまだ誰も見たことのない未知を新しさとして提示したが、ポップアートに代表的なように、現代社会の変化に敏感に対応していた。そして現代は網の目のように無限に拡がる情報化社会、つまり過去から現代に至る情報を誰もが簡単に入手できる時代である。二十世紀後半までのアーチストのように、こっそりと過去のコンテンツを活用することはできない。むしろ過去コンテンツ(群)の引用・援用であることを明示し、その的確な理解の上に作家独自の現代性を表現する必要がある。

 

 このような現代性に若冲芸術はピタリと当てはまる。彼は伝統的な日本画の絵師である。得意不得意はあるが、過去の絵画伝統を長い時間をかけて習得し、その上に彼独自の表現を為した。もちろん若冲は江戸の人である。現代の、特に創作者のような強い自我意識をそのまま彼に当てはめることはできない。若冲は封建的な〝(ぶん)〟を知る人でもあった。

 

 しかし天皇家のお膝元ということもあり、江戸より自由な雰囲気のあった江戸後期の京都で、現代に通じるような人間の自我意識が存在しなかったわけではない。むしろ江戸後期の自我意識は、明治維新後に流入したヨーロッパ的自我意識よりもわたしたちには馴染み深いものである。そういった現代とは異なるが、どこかで確実に現代精神に通じている自我意識を的確に見極めることが、若冲理解(鑑賞)のポイントになるだろう。(中編に続く)

山本俊則

 

 

 

 

■ 伊藤若冲関連の本 ■

『伊藤若冲絵画集・動植綵絵』【全解説・釈迦三尊図つき】 若冲 ~名宝プライスコレクションと花鳥風月 (別冊宝島 2392)

 

 

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