そして、誰もいなくなった

日本テレビ

日曜 22:30

No.131_TVドラマ批評_01

 

 

 藤原竜也主演ということで、観たいと思った向きは多いと思う。当代若手の実力派だし、他のキャスティングも素晴らしい。と、利いたふうなことを書いたものの、ほんとのことを言うと、藤原竜也の何が実力派なのか、まるでわかってない。皆がそう言うから、たぶんそうなのだろう、というやつだ。もちろん、ヘタだなーと思ったことはないが。舞台とかだと、なるほど、と納得するような気がする。

 

 テレビで視聴者を納得させるのは、ごく日常的な、細かいリアリティではないかと思う。木村拓哉とか岡田准一とか、舞台で鍛えられたことのなかったアイドルさんたちが、等身大の延長線上でスタイルを作り、それはテレビというメディアにとてもフィットした演技力だった。

 

 俳優の演技だけではなくて、テレビドラマの企画や脚本に求められるものも、煎じ詰めれば日常的なリアリティに他ならないのではないか。このドラマは、キャスティングをはじめとして、またアガサ・クリスティーの傑作『そして誰もいなくなった』と酷似したタイトルからして、期待が先行したものの、なんとなく視聴者をしてズレを感じさせるようだ。つまりリアリティのなさ、という点で。

 

 それは本当につまらない、細かい難癖に近いことの積み重ねなのだ。主人公は母ひとり子ひとりで育った優秀な青年で、地方の国立大学出身。センター入試当日に体調を崩し、東大合格には点数が足りなかったという。エリートでありながら視聴者の同情や共感を得る設定だろうが、親元を離れて暮らさせるのは私大の学費よりかかる。それに東大ってセンター入試の比率低いし、足切りにあわなきゃよいのでは?

 

 さらに彼の元カノの、彼に対する執着とか、自死の仕方とかがひどく不可解で、そういう女を主人公として心理を解明でもしてくれないことには、とうてい納得できない。話としては不条理劇なのだが、だからといって登場人物がいちいち不条理であっては、テーマとしての不条理が意味を成さなくなる。

 

 主人公は、マイナンバーに相当するような ID を失い、その ID を持った同姓同名の人物にアイデンティティそのものを奪われ、存在しない存在として追い詰められていく、というストーリーなのだが、すでにマイナンバーが交付されている現在、その設定が切迫感を持たない。アメリカの社会保障番号と同じなので、万一、番号が重なっていたところで、だからなんだというのか。

 

 宮部みゆきの『火車』は、自ら意図して他人のアイデンティティを奪い、他者になりすました女を刑事が追うという傑作だった。意図してやればそういうことが可能だ、というリアリティが背筋を凍らせたが、もしアイデンティティを奪われた本人が声を上げれば、もちろん終了、成り立たないに決まっている。

 

 つまりはいろいろな説明、付加的な不運、人間関係のトラブルがいかに重なっても、母親や友人がいる日常において「自分の存在を証明できない」という危機が、いまいちぴんとこないのだ。そしてそれ以上に、その危機によって何を伝えようとしているのか。マイナンバー大賛成というわけではなくても、やはりわからない。

山際恭子

 

 

 

 

■ 脚本家・秦建日子さんの本 ■

アンフェアな月―刑事 雪平夏見 (河出文庫) 刑事 雪平夏見 アンフェアな国

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■