No.023_P_BOOKレビュー_01

書名:『穂村弘が聞く馬場あき子の波瀾万丈 寂しさが歌の源だから』

発行:角川文化振興財団

発売:株式会社KADOKAWA

初版発行:2016年6月25

定価:1,800円(税別)

 

 

 『寂しさが歌の源だから』はKADOKAWAの「短歌」誌に一年間連載された馬場あき子さんのインタビューです。聞き手は口語短歌の旗手・穂村弘さんがつとめました。このインタビューは連載中から毎回楽しみでした。また「短歌」誌のインタビューを読んでわたしが「短歌」の時評を掲載させてもらっている文学金魚でも馬場さんへのインタビューを企画したようです。こちらのインタビューも面白かった。後からインタビューした金魚が意図的にフォーカスをずらしたのかもしれませんが馬場さんという作家の異なる面が両者によって浮き彫りになったように思います。

 

 馬場さんは優れた歌人であると同時に日本の古典文学の碩学です。穂村さんのインタビューは歌人・馬場あき子に迫っており金魚の方は馬場さんの古典文学への知見に焦点を当てたインタビューでした。馬場さんは大学で古典文学を研究されている学者ではありませんからその評論については学術的――ということは事実関係の調査などによって現在では様々な批判が可能だろうと思います。しかし詩人の直観に貫かれた文章は一般読者にとっては学者の文章とは比べものにならないほど貴重です。また馬場さんの文章には〝その直観は正しい〟と読者に納得させる力があります。

 

 わたしは若い頃に白州正子さんの『お能の見方』を読んで「お能はもう死んでいるのだ」という文章に衝撃を受けました。日本の古典芸能はわたし自身のルーツでもありますが死んだ芸術をその都度舞台で蘇らせるという方法は唯一無二の人間の自我意識を中心とする近・現代文学的思考に慣れた精神には衝撃的だったのです。しかしその後馬場さんの文章を読んで白洲さん的思考にはまだまだ先があると確信しました。

 

 お能の型は確かにもう死んでいると言っていいほど確立されています。しかしその底には怒りや怨念や愛慕といった沸騰する人間感情が渦巻いています。それは決して解消されるものではなくまた現代だろうと五百年前であろうと変わることのない普遍的人間感情です。お能ではそれは死者の怨念として表現されますが生きている人間の感情も似たようなものです。むしろ生者の怨念が死者のそれになることでさらに純化・増幅される。それをどうなだめるのか。その時に必要とされるのが型だというのが馬場さんのお能理解だと思います。

 

 お能ではワキ僧と呼ばれる室町時代最高の知識人であり宗教的賢者が登場します。ワキ僧の知性と宗教的倫理が支配する舞台にシテ(幽鬼)が現れるのです。ワキ僧は幽鬼の邪悪で破壊的な感情を制御しながら存分にその思いを語らせます。そしてシテを成仏させてやります。しかし成仏は一時的なものでしかありません。シテは成仏してから再び絶対に解消できない怨念の世界に戻ってゆく。その永遠循環がお能という芸術の在り方でありそれを可能にしているのが型です。

 

 型にはめられた時点で不定形の幽鬼の怨念は抽象化されます。それは棘を抜かれ荒ぶる力を失った弱々しい姿だとも言えます。しかしわたしたちはその底にいつまでもなだめられられることのない不穏な怨念が渦巻き続けていることを知っています。お能には「夢幻能」という様式がありますがそれは観客側にとってのみならずお能の主人公である幽鬼にとっても舞台が一瞬の儚い夢であることを示唆しているかのようです。

 

 お能の型は言うまでもなく世阿弥が大成しました。そこには神楽や申楽はもちろんのこと王朝和歌や『源氏物語』『平家物語』などの物語文学の伝統が流れ込んでいます。平安朝以来の文化が室町時代になって大きな盛り上がりを見せその頂点を型として捉えたのが世阿弥です。世阿弥の型が普遍的なのはそれが何世代にもわたる知と感情の集積であり純化だからです。またこのような型の創出は日本文化では馴染み深いものです。和歌でも俳句でも茶道でも同じことが起こっています。誰もが茶道は千利休が俳句は芭蕉が大成したと言います。しかし彼らは文化的な大きな波の頂点でそれを型に昇華した代表者的作家だとも言えるのです。

 

 型という芸術システムは日本文化にとって大変重要なものです。日本文化でそれが最も早く様式化されたのが和歌(短歌)です。歌壇では現在口語短歌が全盛ですが文語・口語に関わらず短歌が型を基盤とした表現であることは変わりません。むしろ型を中心に据えれば文語・口語の修辞的問題はトリビアルなものとして相対化できる可能性があります。

 

 口語短歌は一種の前衛短歌運動だと言っていいと思いますがそこには従来の型を破ろうという意識が含まれます。しかしどの文学ジャンルでも前衛運動は落としどころが難しい。永久革命などありえないからです。前衛を一過性の新し味で終わらせないためにはそれぞれのジャンルの根にまで表現を届かせる必要があります。

 

馬場 でも、なぜ歌だったの。俳句か詩でしょう、ふつう。

―――いやあ、僕の感覚では定型の五七五七七がゲームのルールみたいに見えていて、それに惹かれました。

馬場 なるほど、ゲーム感覚ね。

―――そうですねえ。塚本邦雄さんの歌って、すごくシビアにも見えるけれど一方でゲーム的でもあるじゃないですか。戦争のモチーフとか、美学みたいなものを感じとらなければ、すごくゲームっぽい歌に見えるんです。

馬場 はあ、そうか。それ、いつごろの歌ですか。『裝飾樂句』(昭31)のころからの歌を読んでいるの。

―――わりと最初から。今見ても、そう感じますけどね。

馬場 最初の歌はゲームっぽいのね。

―――ええ。ことばを組み合わせている。

馬場 だけど、『感幻樂』(昭44)から後、ちょっと違ってくるでしょ。

―――そうですね。『綠色研究』(昭和40)くらいまでがすごくデジタルな感じで、〈日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも〉とか、ああいうのはパズルみたいに感じますね。

(『穂村弘が聞く馬場あき子の波瀾万丈 寂しさが歌の源だから』より)

 

 今回のインタビューでは馬場さんだけでなくインタビュアーの穂村さんの発言にも注目していました。馬場さんは前衛短歌運動の渦中にいましたが古典を自らの文学の基盤にした時に「ある何かを握った」とおっしゃっています。また本のタイトルにもなっていますが「寂しいから作るじゃないの。充実を求めて作るもの、歌は。結局、最後の友達は歌だけなの」と語っておられる。こういった思想は単純ですがものすごく強い。

 

 馬場さんは昭和三年(一九二八年)生まれですから昭和十六年(一九四一年)開戦で昭和二十年(一九四五年)終戦の太平洋戦争にピタリとその青春時代が重なっています。また戦後は戦後で六〇年安保闘争とその挫折を観念としてだけでなく実生活への影響という意味でも体験しておられる。しかし社会批判や怒りを直接歌で表現した作家ではありません。

 

 言論統制は戦前の社会的抑圧ですがナマの直情を作品にしなかったのは戦前の作家も戦後の作家も同じです。直情は白鳥の歌になり得ても過去に立脚し未来へと続く文学の礎にはならないからです。馬場さんの場合は古典研究で掴んだ型が激情を抑制したと言えます。またその根底には人間は本質的に孤独だが短歌という不滅の形式を信じるという思想があります。

 

 ですから馬場さんは塚本邦雄の短歌について「ゲームっぽい」「パズルみたい」とおっしゃる穂村さんに反論してもいいのです。しかしそうなさらない。理由は穂村さんが塚本短歌の変遷を十分認識した上でそう語っておられるからです。ただ穂村さんは〝あえて〟そのような発言をしたわけではありません。批判意識があるならとっくに馬場さんが読み解いておられるでしょうね。歌史も歌人の個人史もわかった上で穂村さんが裏の意味のない率直な感想をお話になっているので馬場さんは彼に強い興味を持っておられる。

 

 馬場さんは穂村さんの「東(直子)さんのほうが僕より文語が入ってないと思います」という発言に「そうかあ。(中略)整ってるから文語も入っているかと思った」と答えておられます。また穂村さんの作品「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」を高く評価しているが「その後評価している人とは、私の理解とは少し違っていたようだ」とおっしゃっています。

 

 インタビューで馬場さんは自分も口語を使っていると繰り返し強調しておられます。ですから口語短歌の問題は本質的には修辞にはない。東作品は短歌伝統に沿って読み解けます。しかし穂村作品はそうではない。馬場さんの歌学や短歌伝統にとって異和だから穂村作品に注目しているのではないでしょうか。

 

―――(前略)一方で、普通、「消費」って悪い意味で使われるわけだけど、実は短歌って消費すらしてもらえないジャンルでもあったわけです。つまり値段がつなかいジャンル。内輪のものはお互いに、ある親近性をもって評価し合うわけだけど、全く一般の読者からすると、消費する価値がないものというか。だから、たとえアイディアであっても、それが消費されるということにも価値はあると思うんです。

馬場 なるほど。はじめは消費するにも値しないものだったのが、(与謝野)晶子とか(若山)牧水とか出てきて。あのとき「朗誦性に足る」ということが値段のつく価値だったかしらね。牧水の歌は朗()性があった。一方(斎藤)茂吉の歌は朗()性があったと思う。

(同)

 

 このような箇所は明らかにお二人のお考えがかみ合っていません。でもだからこそ『寂しさが歌の源だから』は若手歌人が歌壇の大家にお考えをおうかがいする通り一辺倒のインタビューになっていないのです。読者としては新旧お二人の歌人がニアミスしてすれ違うから面白い。穂村さんがおっしゃっているのは文字通りの〝短歌の消費〟です。短歌はアイディア勝負で「ああ面白かった」で消費されてもいいじゃないかということです。それに対して馬場さんはあくまで文学的意味での短歌の商品流通価値のことをおっしゃっています。

 

 馬場さんは穂村さんも六十代になれば「苦―いことしか言えなくなってきますよ」とおっしゃっていますが恐らくそうならないと思います。穂村さんが勉強家でありかつその努力の向かう先が一向に見えないのは彼の資質に理由があるのだろうと思います。ありていに言えば作家の感覚以外は〝なにもない〟から穂村短歌は謎めいて見えてしまう。ただ00年代に自らの感覚以外は信じないゼロ的歌人が生まれたことは示唆的でしょうね。なにかがリセットされたのは確かなようです。

 

 馬場さんは初期から一貫して前衛短歌や古典といった要素を次々に取り入れることで自らの文学基盤を泡立たせてきた作家です。八十代後半になっても口語短歌に強い関心をお持ちになっているのは驚異的であると同時に老獪な作家性を感じます。穂村さんは穂村さんで口語短歌の〝底〟を感じさせる優れた作家です。穂村さんの作品世界に生活の垢や思想が入り交じればそちらの方が嘘だろうと思います。ただ退路を断っているとは思えない。

 

 エクストリームな口語短歌歌人が「一般の読者からすると、消費する価値がない」歌は作るまい――つまり消費されるだけであっても一般読者に面白がられる作品を作ろうとしておられることはよくわかります。しかしその試みはまだ歌壇の「内輪」を出ていないと思います。短歌に限らず詩が物語という強い牽引力のある小説のように普段本を手に取らない読者にまで広く読まれる可能性はありません。一般読者は文学に興味のある層がターゲットにならざるを得ない。そういった読者に読ませるには〝なぜ短歌なのか〟という動機付けが必要です。それには面白いだけでは不十分です。むしろ文学好きの一般読者は短歌の本質を知りたがっている。

 

 自由詩人ですが荒川洋治は昔「詩で芥川賞を獲る」という意味のことを言いました。詩人が夢想する一般読者はたいていの場合小説読者に重なっています。しかし現実には詩と小説のマルチジャンル作家にならなければそれは実現できません。詩人があくまで詩で一般読者に挑もうとすればむしろ「内輪」の業界内に閉じてゆくこともしばしばです。一般読者をターゲットにしていないドメスティックな詩壇を仮想敵としながら業界内から対外的にアピールできる唯一の方途である賞などの詩壇内評価を求めるようになるわけです。つまり結局は仮想敵と同じ土俵に留まることになる。身も蓋もない言い方をすれば歌壇や俳壇や自由詩壇ではそうやって新鋭詩人が年を取って普通の業界内詩人になってゆく。

 

 作家はどこかの時点で性根を据える必要があります。一筋に短歌の根を探求しても広い意味で一般読者の獲得を目指してもかまわない。ただどちらの場合も他者集団としての詩壇などあてになりません。詩壇は本質的にほんの一握りの優れた詩人の周囲に自然発生的に出来上がる共通思考パラダイムのようなものです。馬場さんのおっしゃる『寂しさ』は作家は本質的に孤立無援だという思想です。作家たちは短歌なら短歌という文学形式への信頼と愛だけで結ばれています。短歌だけを友とすれば現実詩壇の利害を巡る妄念はうんと軽くなるでしょうね。

高嶋秋穂

 

 

 

 

■ 馬場あき子さんの本 ■ 

寂しさが歌の源だから 穂村弘が聞く馬場あき子の波瀾万丈 鬼の研究 (ちくま文庫)

 

 

■ 穂村弘さんの本 ■ 

短歌ください 君の抜け殻篇<短歌ください> (ダ・ヴィンチブックス) 世界音痴 (小学館文庫)

 

 

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