毒島ゆり子のせきらら日記

TBS

水曜 深夜0:10

No.122_TVドラマ批評_01

 

 

 「深夜の昼ドラ」を目指すというコンセプトである。それにしてはいい、という印象だ。つまり昼ドラにしては上出来、という。そもそも深夜枠のステータスが、昼ドラを目指さなくてはならないものかどうかも、よく知らないのだが。深夜ドラマとしては、傑出しているというほどでもないかもしれない。

 

 傑出した深夜ドラマだと印象づけられるのは、深夜枠特有のまったり感があるものが多くて、あとは深夜にはもったいないみたいな豪華さが話題になるものもあるけれど、それじゃあそれをそのままゴールデンに流せばいいかというと、これがはまらない。バラエティなどの深夜ノリとはまた違う、深夜ならではのチープさがやはりチープに映ってしまうとでも言うか。

 

 ただそのチープさは、本来的なテレビのあり方を示していることが多いと思う。もちろん大河ドラマは豪華だし、大奥ドラマの着物の値段は最近のテレビにはくっきり映り出されるのだが、よく考えればテレビドラマである必然性はない。大河ドラマはテレビドラマではなく、NHK というかなり特殊な局のイベントパフォーマンスであり、大奥ドラマの着物は必ずしもドラマのストーリーの中で展示されなくてはならないことはない。

 

 モノやヒトの豪華さを外したところにテレビドラマのテレビドラマたるところがある、という意味で、早朝番組と昼ドラ、深夜枠のそれぞれに本質が分散されていると見てもよい。早朝にはその情報性と伝達性、昼ドラは早朝とは対照的に、出勤前の人々でなく昼間に家でテレビを眺める常同性がある。

 

 そして深夜枠のチープさは、何でもありの目配せが結びつける親密性を持つわけだけれど、この「せきらら日記」というタイトルに、せきららであるという親密感と日記という常同性が共存して、深夜の昼ドラを目指すというコンセプトになったのか、と理屈は組み立てられる。

 

 しかしながら常同性がもたらす気怠い背徳とか、よろめきとかとはズレていて、そこが深夜ならではでもあり、ちょっと新しいかなとも思わせる。ドラマとしてまとまりすぎない、今の若い女の放り出されたようなリアリティがあり、それが「せきらら」とも「日記」とも読ませる。

 

 この若い女のリアリティを、前田敦子が好演する。時代のイロモノと言えば今さらだけど、それ自体のチープ感が今思えば極めてテレビ的だったグループでの、これも冗談みたいなトップアイドルだったと言えば叱られるか。叱られても仕方のないほど、ここでの彼女はなかなか説得力がある。ああ、こうやっていつの時代も、冗談みたいなイロモノに見えたものからひとかどのモノができてくるんだったと思わせる。

 

 豪華なドラマが豪華であるがゆえにテレビの本質からズレるのと同様に、非の打ち所がない美人女優は俳優という本質から外れた存在になる。テレビの申し子の一人である前田敦子は、高嶺の花の映画女優とも、オーバーアクションの舞台女優とも違う。「ブスジマ」と名乗る若い女の日常の醜悪を平然と引き受けるのは、アイドルとしてイロモノだった部分かもしれないが、俳優として、ああそうかと膝を打つ。そしてふとした瞬間、やっぱりすごく綺麗な子じゃないか、とも映るのである。

田山了一

 

 

 

 

■ 脚本家・矢島弘一さんの本 ■

らじどらッ!~夜のドラマハウス~ #14 第8話 どうして、私を裏切ったの?
■ 前田敦子・新井浩文さんのCD、DVD ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■