あさが来た

NHK

月~金曜 8:00AM~(放送終了)

No.112_TVドラマ批評_01

 

 

 最高の視聴率だったことが話題になった。そうかと思って観てみた向きは、拍子抜けしたかもしれない。とりたてて新しみもない、飛び道具も見当たらない、フツーの朝の連ドラなのだ。これぞ王道であり、王道の勝利だなどとも囃された。しかし、それは本当にそうだったのか。

 

 朝の連ドラと言えば、あの『あまちゃん』ブームが記憶に新しい。ナンセンスな挿入歌まで覚えてしまって、ほんとに面白かったのだけれど、数字はさほどでもなかったと知り、ちょっと愕然とした。そういうものなのか、と思った。テレビの世界にはまだ「大衆」がいるとか、その保守性だとか、そういうことではない。むしろ自らの不明を恥じたに近い。

 

 『あまちゃん』の物語批判性、ポストモダニズムに快哉を叫んだのは、大学でポストモダンを学んだ人々とか、ポストモダン的な現在を実感する若い人たちではなかったか。彼らがそれを SNS などに書き込む。日常的にネットを見る我々は、それをもって大変な話題だと思い込む。しかし朝の連ドラを観る人々の大半は、Twitterなどやっていない。若向きの民放ドラマなどとは、そもそもパイが違う。

 

 それらの人々はたいてい、黙って観ているのである。それも日常の仕事や生活の片手間に。それはテレビというものがそういうものだからで、視聴者のあり様を層に分けるよりは、テレビの本質的なあり様を考えるべきだろう。家を出る直前の小中学生も、家にいる中高年も、テレビの感想をいちいち tweet するほど暇ではない。

 

 黙って観ている彼らを惹きつけたものは「朝の連ドラの王道」といったものでもなかった、と思う。そのような「評価軸」と照らし合わせてドラマ鑑賞するには、誰もが忙しすぎるではないか。我々は足を運ぶ必要もない、ある種のテレビドラマにただなんとなく惹きつけられて観る。

 

 その鉱脈を、しかし現在の「朝の連ドラ」は確かに掘り当てたのだ。そうでなければこれほど当たりが続くはずもなく、また対照的な『あまちゃん』という実験作も大成功する、などということは起こり得ない。ある本質をつかみ、すべてをそれによってコントロールできていると見える。

 

 その本質とは、ドラマの王道とは裏腹に、ドラマへの見切りのつけ方に依っている。ようはノンフィクションの、事実の持つ力をテコにしている、ということだ。もちろん、モデルのいる朝の連ドラはこれまでもあった。が、それは「その時代を明るく生き抜いた」ヒロインであり、つまり朝の連ドラをドラマとして楽しく観せるための存在に過ぎなかった。そしてそんなものを観ているほど、我々はもう暇ではない。

 

 現在の「時代を変えた、社会や男たちに影響を及ぼした」実在のヒロインたちが我々に与えるのは、事実に基づいた「情報」である。「啓蒙」と言ってしまうと、そこにはまたフィクショナルな眉唾が生じる。朝の連ドラのヒロインは、いまや大河ドラマの要件をも備え、さらに女性であるがゆえの日常的リアリティをもって、しかも毎朝、我々に迫る。無敵なはずである。

山際恭子

 

 

 

 

 

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