小説すばる_No.018_01

 

 

 映画『エヴェレスト 神々の山嶺』の公開記念で、夢枕獏と岡田准一の対談が掲載さーている。わりあいに呑気な、普通の対談で、それは作家と芸能人だから当然かもしれないが、原作の凄みを知っていると、何か不思議な気がしないでもない。もっとも読書家の岡田准一は、映画の話がある前から『神々の山嶺』を読んでいて、「震えるような小説」と評する。

 

 作家は「いい話だねえ」と素直に喜ぶのだが、実際のところ『神々の山嶺』は他の作品とは質が違う傑作である。つまり、他の作品が傑作ではないのではなくて、傑作として質が違う。質が違う読者を獲得する書物だ、ということだ。端的に言えば、エンタテイメントを超えている。

 

 では純文学か、と言うと、いわゆる制度的な純文学、私小説の系譜のものではない。何よりやはり、息をも吐かせず一気に読んでしまう面白さは、純文学であってはならない(?)。しかしそこには殺人もないし、色っぽいおねえちゃんも出てこない。結局は、男が命懸けで崖を登るだけだ。

 

 『神々の山嶺』が純文学とエンタテイメントの枠を超えて傑作なのは、およそ文学が本来的に抱えるべき、絶対的なテーマを完全に表現しているということに尽きる。そのテーマとは、人間を超えたもの、人智のおよばぬものである。ここではそれは岩の塊、いつ頭上に落ちてきて、我々を無言で押しつぶすかも知れぬものとして示される。人智がおよばぬ、理解不能なのだから “ 神々の ” と呼ぶしかない。

 

 主人公の羽生丈二は山に憑かれた男であり、だから山の岩にも似ている。孤独で無口で、何を考えているかわからない。この男がエヴェレスト南西壁冬期無酸素単独登頂に挑む。それがいかに困難を極める、無謀な試みなのかは、山を知らない読者でもわかってくる。山に言葉は通じないが、登攀の歴史には文脈ができている。クライマーはそれに沿い、最後は逸脱して山に対峙しようとするのだ。

 

 この超人的クライマーを、映画では阿部寛が演じる。誰がやっても厳しいが、確かに今なら他には考えられまい。岡田准一が演じる深町誠もクライマーで、カトマンズの町で見つけたカメラをきっかけに羽生に遭遇し、彼に魅せられて追いかけ始める。深町の視線と内面を通して、我々は羽生丈二を、人智のおよばぬ山というものを理解する手がかりを得るのだ。

 

 最大の謎は、人はなぜ山に登るのか、ということだろう。羽生について行けず、途中で下山した深町だが、町中で日々を過ごそうとして嘔吐する。深町のシーンで印象深いものだが、映画では表現されているだろうか。日常の安寧に、下界の心地よさに耐えられないのだ。凡庸なクライマーに過ぎない、深町ですら。

 

 そして岡田准一の言葉を借りれば「震えるような」、決して忘れられないラストシーン。そんな冷徹なテーマを描いた夢枕獏が上機嫌で対談してるのは、やっぱり可笑しいけれど、人をそこまで鍛えるのは結局、肉体の経験しかあるまい。ロケ地での激しい挑戦を、また『SP』の岡田くんのアクションを褒め称える獏先生は、きっとそれを信頼するのである。

長岡しおり

 

 

 

 

神々の山嶺(上) (集英社文庫) 神々の山嶺(下) (集英社文庫)

 

 

 

 

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