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於・東京国立近代美術館

会期=2014/09/23~11/03

入館料=1400円(一般)

カタログ=2400

 

 

 菱田春草(ひしだしゅんそう)は明治七年(一八七四年)に長野県伊那郡飯田(現・飯田市)に、旧飯田藩士の三男として生まれた。幼い頃より絵を好み、明治二十三年、十六歳(数え年、以下同)の時に第三回東京美術学校(現・東京藝術大学)を受験した。維新以降の日本の近代化は急速に進んでおり、明治も二十年代になると、どの学問・芸術ジャンルでも大学に進学して学ぶ者が増えていたのである。

 

 春草の美学校での師は狩野派の橋本雅邦(がほう)であり、一学年先輩に横山大観(たいかん)(年齢は大観が七歳年上)や下村観山(かんざん)(一歳年上)がいた。春草と大観は親友と言っていい仲で、絵の合作はもちろん、共同名義で多くの画論も発表している。また当時の美学校校長は岡倉天心(てんしん)だった。天心は維新以降の近代的日本画を、緻密な理論とその強烈な個性によって主導した怪人である。春草と大観は天心の秘蔵っ子と呼んでいような画家たちだった。天心がいわゆる美学校事件で校長を辞した時は、ともに日本美術院の創設に参加している。

 

 ただ春草は明治四十四年、三十七歳の時に慢性腎臓炎を患って早世してしまう。三十二歳頃からは画家にとってはまことに辛い、腎臓炎に起因する眼病(網膜炎)も発症していた。もちろん早世したとはいえ春草の画業は素晴らしい。十六歳で美学校で学ぶことができる画力を持っていたことからもわかるように、この時代の若者の成熟がおしなべて早かったことも確かである。しかし春草の死去はやはり少し早すぎたと思う。大観は九十歳の長寿を保ち(昭和三十三年没)、日本画壇に押しも押されぬ大家として君臨した。長寿だったから大家になれたわけではないが、晩年になるにつれ大観の画業は成熟している。

 

 岡倉天心が死去する大正二年頃まで、春草を始めとする日本美術院の画家たちは天心の強い影響下にあった。画家の強い自我意識で作品を製作し、古典的日本画を探求しながら西洋的手法を積極的に取り入れるのが天心の方針だった。それは数々の成果を生んだが、おおむね明治時代は天心主導の〝実験の時代〟だった。そのため春草の画業を語る際には天心の影響が入り交じるのが常である。以前取り上げた速水御舟も四十一歳で早世しているが、強烈な個性の師を持たず、同世代の今村紫紅らの画家たちと切磋琢磨した彼の絵には明らかな統一性がある。しかし春草はそのような境地に達する前に死去してしまった。

 

 今回の展覧会で、初めて春草の画業を初期から晩年まで通覧することができた。春草は飛びきり上手い画家だなと思った。ただ展覧会や図録の構成を含め、春草が天心的な一種のイズムに包まれている画家だという印象も受けた。春草自身が積極的にそれに参画した画家だから自然なことではある。しかし一方で一人の画家として、できるだけ春草を彼を取り巻く〝言葉〟から解放してやる必要もあるだろう。春草の個性に基づけば、彼は奇妙な画家だったとも言えるのではないかと思う。

 

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『寡婦と孤児』

絹本彩色 明治二十八年(一八九五年)七月 縦一三六×横八四センチ 東京藝術大学蔵

 

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『水鏡』

絹本彩色 明治三十年(一八九七年)十月 縦二五七・八×横一七〇・八センチ 東京藝術大学蔵

 

 『寡婦と孤児』は春草の美校卒業制作作品である。『太平記』の「北山殿謀反事」を典拠とし、後醍醐天皇暗殺を企て斬首された西園寺公宗の妻・日野名子が、茅屋で男児を産み落とした場面を描いた作品だと言われる。卒業制作の審査で橋本雅邦はこの作品を推したが、福地復一(またいち)(東京美術学校初代図案科教授)は「化け物絵」だと批判し落第を主張した。最終的に岡倉天心の判断で首席に選ばれた。なんとも極端な成り行きである。

 

 『水鏡』は春草自身が、天女衰相(美しい人や物も必ず衰えること)を描いた作品だと語っている。美女として描かれているが、天女の左側に色の移り変わる紫陽花を配し、水鏡を濁らせることでその衰弱を暗示しようとしたようだ。なお科学調査で春草は、この作品に西洋絵画の絵の具を使い、肉眼でははっきり見えないが、背景に金粉を使用したことがわかっている。技法的にも意欲作だと言えよう。

 

 これらの作品には画家の思想が反映されている。『寡婦と孤児』は日清戦争(明治二十七年から二十八年)中に描かれた作品で、当時、夫が戦死して寡婦となる若い女性が社会問題となっていた。ただ社会批判的な作品だと言い切ることはできない。日野名子とおぼしき女性は廃屋の入り口に不安げな眼差しを注いでいるが、胸に抱いた赤ん坊は嬉しそうな笑顔を見せている。生きる不安と喜びを同時に描き出そうとした作品である。『水鏡』も同様で、水鏡を見つめる天女の眼差しは冷たく落ち着いている。美の衰えへの嘆きは感じられない。むしろすべてを見通しているかのような澄んだ眼差しである。

 

 この時期天心は、日本画にも「理想」がなくてはならないとしきりに主張していた。春草自身、絵では「考えを描く」のだと語り、天心の考えを受け入れていた。ただ春草の「考えを描く」作品に強い思想を読み取ることはできない。『寡婦と孤児』の社会批判思想は中途半端だと言わざるを得ず、『水鏡』も同様である。確かに美しいものを徹底的に美しく描く日本画の伝統に一石を投じる試みではあったが、それがどこに向かっているのか判然としない。福地復一が『寡婦と孤児』を「化け物絵」と呼び、岡倉天心がその反対に高く評価した理由もそこにある。福地は伝統を外れる画風を嫌い、天心は日本画の新たな試みを最大限に評価したのである。

 

 また『寡婦と孤児』や『水鏡』は人物画だが、春草がその後、美人画や歴史画、あるいは山水や仏画などの歴史的題材に絞って専門的に絵を描くようになったわけではない。試行錯誤の途上で亡くなった画家とはいえ、春草に画題の好みはない。様々な種類の絵を描いている。その様々な試行の中に、うっすらと春草の画業の本質が現れている。

 

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『夕の森』

絹本彩色 明治三十七年(一九〇四年) 縦四四・五×横六〇センチ 飯田市美術博物館蔵

 

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『海辺朝陽』

絹本彩色 明治三十八~九年(一九〇五~六年) 縦四二・二×横六一・一センチ 福井県立美術館蔵

 

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『躑躅』

絹本彩色 明治三十九年(一九〇六年) 縦一一六・二×横四九・九センチ 公益財団法人遠山記念館蔵

 

 天心が美学校を辞し日本美術院を創設した頃から、春草や大観らが中心となっていわゆる〝朦朧体〟による新たな日本画の試みが始まった。日本画は墨で輪郭線を描きその中に色を乗せるのが基本だが、朦朧体はそれを排して画面に直接色を塗り伸ばしてゆく技法である。そのため画面に独特のぼかし効果が生じる。朦朧体の試みは、天心が光や空気を描く方法はないかと言いだしたことから始まった。日本画でもヨーロッパの印象派のように光の陰翳の絵を生み出そうという発想から始まった技法である。油絵のように絵の具を直接画面に乗せてゆく新技法でもあった。

 

 朦朧体の絵は当初あまり評判が良くなかった。今では当たり前に見えるその技法も、当時はぼんやりしていて何を描いているのかわからないと批判されたのである。この技法を完成させ、その魅力を世に認めさせたのは言うまでもなく大観である。ただ残された作品を見ると、春草の試みは大観よりもラディカルだった面がある。

 

 『夕の森』は天心や大観とともに、アメリカに滞在していた時に描かれた作品である。印象派の作品に馴染みがあったせいか、日本では不評だった朦朧体作品は現地で好評だった。それに勇気づけられたのか、春草は極端なほどの探求を進めてゆく。『海辺朝陽』は恐らく帰国後に描かれた作品だが、砂浜と海、それに太陽に照らされて鈍い金色に光る雲と空しか描かれていない。おそらくこのような作品が春草の朦朧体試行の極点だろう。

 

 ヨーロッパの印象派は、古典的具体描写法に反旗を翻す前衛運動でもあった。〝目に映ったままの印象を描く〟というスローガンの元に、古典的絵画技法を解体し、具体物を光の点や染みに還元していった。またよく知られているように、印象派の画家たちは、ジャポニズムブームに乗ってヨーロッパにもたらされた浮世絵から大きな刺激を受けていた。日本画の平面画法に新たな絵画の可能性を見出したのである。しかし春草らの朦朧体の試みはヨーロッパ印象派とは質が違う。日本画の作家たちにとっては、むしろヨーロッパ絵画的な遠近感をどうやって取り入れるのかが課題だった。

 

 春草は風景の遠近感を墨や色の濃淡のみで表現している。その試行を、殺風景とも言える水平線と太陽しかない浜辺の画題にまで推し進めている。それは日本画の伝統を踏まえた新たな遠近描写だった。ただそこから『躑躅』のように、具体物の色と形が現れてくるのである。

 

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『落葉』

紙本彩色 明治四十二年(一九〇九年)十月 屏風 六曲一双 各縦一五七×横三六二センチ 永青文庫蔵

 

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『落葉』

紙本彩色 明治四十二~四十三年(一九〇九~一〇年) 縦一五四・二×横三五四・三センチ 福井県立美術館蔵

 

 短い人生だが晩年と言わざるを得ない時期に、春草は『落葉』と題された屏風作品を立て続けに描いた。未完を含め四点の『落葉』が確認されている。連作になったのは作品が好評で注文があったからだが、春草がこの画題に可能性を感じていたためでもあるだろう。

 

 図版掲載したのは一年ほどの間に描かれた『落葉』二点である。パッと見てわかるように同じ構図である。左双に枯れ葉を付けた小木が描かれ、右双に常緑の、おそらく杉の小木が描かれている。背景は疎林の木々で地面には落ち葉が散っている。違いは最初の『落葉』では、木々や葉が具体的に描かれていることである。また枯れ葉と常緑樹の対比は生と死を暗示させる。その明瞭なコントラストは見る人に、否応なくなんらかの意味(思想)を想起させるだろう。しかし二つめの『落葉』はすべてが淡い。枯れ葉と常緑樹が正反対の観念ベクトルを指しているようには見えないのである。むしろそれこそが自然の摂理に映る。

 

 おそらく二点目のすべてが淡い作品に、『落葉』で探求した春草の試みの本質があるだろう。具象画だが木や葉の突出した存在感を注意深く抑え込み、絵の具の濃淡で遠近を表した画風である。林の中には色づいた木があり常緑樹があり枝に鳥もとまっているが、どれも突出した存在感を主張することがない。生も死も木々も落ち葉も鳥も、ありのままに存在している。しかし暖色を多用しているにもかかわらず、この調和世界はどこか冷たい。あるいは空虚である。春草の最上の作品には、彼の透徹した冷たい視線があるように思う。

 

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『春日』

絹本彩色 明治三十五年(一九〇二年) 縦一一五・五×横四九・六センチ 福井県立美術館蔵

 

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『黒猫』

絹本彩色 明治四十三年(一九一〇年) 縦一〇五・五×横四〇・六センチ 播磨屋本店蔵

 

 春草は短い生涯にかなりの数の猫図を書いている。今回の展覧会でも、修業時代に描いた伝・徽宗皇帝筆の猫図模写を除いて八点の猫図が出品されていた。猫図が多いのは、猫の絵を好む人が多く注文があったからだろう。ただ春草は猫好きではなかった。猫について「狎昵(こうじつ)(なれなれしいこと)の媚態が多いのは獣類の中でもイヤなものである」と語っている。この言葉に韜晦はない。春草が描いたのはすべて野良猫であり、人間に媚態を示している猫はいない。春草はかわいげのある猫を描くのを好まなかったのである。

 

 『春日』の猫は自分の中に閉じ籠もるように蹲っている。子猫とおぼしき『黒猫』は、人間に出会ってしまった時に野良猫がよくするように、歩みを止め、背中を丸めて警戒の姿勢を取っている。彼らは人間と同じ現実界に存在する生き物だが、人間とは異なる内面(存在理由)を持って自律している。そのような生き物や事物の捉え方が春草の画法の基本である。春草は描く対象に過度な感情移入をしない。対象を突き放して絵の中に存在させている。

 

 『春日』と『黒猫』は八年を隔てて描かれているが、描き方が異なる。連続して描かれた『落葉』連作が抽象の度を増しているのと同様に、猫はより孤独で狷介な姿を際立たせるように描かれるようになる。春草は様々な画題を描くことができた画家だが、偏愛の画題というものは存在しない。自然や動植物をそれぞれ自律した存在として突き放し、その存在に最も合う画法を選択して描こうとした。それが春草独特の、清潔だがどこか空虚な画風になって現れている。

 

 春草とともに朦朧体を実践した大観作品には、対象への愛が感じられる。モヤモヤと描かれた山や空に、文字通り茫漠とした温かい愛情が溢れているような印象を受ける。しかし春草にとっての朦朧体はより技術的なものだっただろう。自然や動植物といった世界内存在を、その本質が不可知なら不可知のままに、自律し完結した存在として描き出すために朦朧体の遠近法が援用されている。春草の絵に突き放したような冷たさと張り詰めた空虚さがあるのは、彼が対象への愛ではなく、対象を描く絵の方法に憑かれた画家だったからではないかと思う。それが彼の画家思想である。春草が長命を保っていれば、わたしたちは大観とはまた質の違う朦朧体作品を目にできたかもしれない。

山本俊則

 

 

 

 

菱田春草 (別冊太陽 日本のこころ 222) カンヴァス日本の名画〈8〉菱田春草 (1979年)

 

 

 

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