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於・東京国立博物館

会期=2014/10/15~12/07

入館料=1600円(一般)

カタログ=2600

 

 

 図録で学芸員の伊藤信二さんが書いておられるが、東京国立博物館はこれまでに三回「日本国宝展」を開催している。もちろんすべての国宝を展示するのは不可能であり、今回は「祈り、信じる力」というテーマで国宝が集められた。国宝というと無条件にありがたいような気もするし、なにやら権威主義的な匂いが漂ってくるような気がしないでもない。しかし実物を見ると、そんな気持ちは吹き飛んでしまうのが国宝の凄いところである。国宝選定は極めて慎重かつ厳格であり、選び抜かれた第一級の美術品である。ただまあこの際だから、まず国宝についておさらいしておきましょう。

 

 国宝を規定しているのは文化財保護法である。さまざまな文化財が列挙されているが、建築物と美術工芸品の有形文化財の中から、特に国が指定して保存・公開すべき文化財が、文部科学大臣からまず重要文化財に指定される。重要文化財からさらに、「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝」たるものが国宝になる。美術工芸品に限ると現在重要文化財は一〇六二四件、内八七二件が国宝指定されている。重要文化財に指定されるだけでも大変なことだが、国宝は重文の八パーセントしかない。いかに選りすぐられているのかがわかるだろう。

 

 ちょっと余計なことを書いておくと、重文や国宝に指定されると、所有者はその保管などに責任を負わなければならなくなる。一定基準以上の保管場所や環境(湿度を一定に保つなど)を用意しなければならないのである。多少の補助はあるようだが、費用は基本、所有者負担である。もちろん移動(売買を含む)する時は国に申請しなければならない。実際問題として個人が所有し続けるにはかなり荷の重い美術品である。そのため美術館に寄託する人も多い。また所有者が亡くなれば、かなりの額の相続税が発生する。美術館に重文・国宝が集まるシステムになっていると言えないこともない。美術展図録の所蔵者一覧を見ると、ときおり個人が混じっていることがあるが、これはたいてい大手古美術商である。そうでなければ個人が重文・国宝を持ち続けるのは難しい。

 

 重文・国宝を多数含んでいた個人コレクションでは、益田鈍翁蒐集品が有名である。鈍翁は三井財閥の大番頭を務めた財界人である。鈍翁の死後、コレクションは売却されたがその大半を古美術商・瀬津雅陶堂が買った。今でもときおり瀬津雅陶堂所蔵の旧鈍翁コレクションが美術館に入ることがある。鈍翁が亡くなったのは昭和十三年(一九三八年)だから、八十年近く持っていても合う金額が動いているということである。なお鈍翁は生前に、自分のコレクションが重文・国宝に指定されるのを嫌った。彼が保管料を気にするはずもなく、廃仏毀釈の時代から仏教美術を購入し、日本文化を買い支えてきたという矜持がそうさせたのだろう。重文・国宝と言われても、「なにを今さら」という気持ちがあったのかもしれない。

 

 本題に戻ると、今回は「祈り、信じる力」というテーマのなので、宗教遺物の優品が数多く集められていた。重文・国宝指定には美術品の保存状態も勘案されるので、基本的には寺社仏閣や家々で代々受け継がれてきた伝世品が多い。例外は出土物である。また美術展は新発見資料のお披露目の場である。今回もびっくりするような遺物が展示されていた。

 

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山科西野山古墓出土品のうち 平安時代 八~九世紀 京都大学総合博物館蔵

金銀平脱双鳳文鏡 銅製 金銀平脱 径十八・三センチ

金装太刀残闕 鉄製 現存長 七十一・五センチ

 

 近年の研究では山科西野山古墓は、坂上田村麻呂の墓とする説が有力のようだ。田村麻呂は光仁、桓武、平城、嵯峨天皇四代に仕えた奈良時代から平安時代初期の武将である。若い頃から陸奥国での蝦夷との戦争に従事し、桓武天皇に征夷大将軍に任命されて戦いを指揮した。もちろん日本で初めての征夷大将軍である。延暦二十年(八〇二年)の戦いで蝦夷軍を破り、翌二十一年には蝦夷の長・阿弖流爲(アテルイ)を降伏させた。この時代の蝦夷がアイヌ民族の祖先であったかどうかはわからない。ただ日本人とは異なる北方民族だったのは確かである。ツングース系の民族もいたらしい。降伏した蝦夷は俘囚として京にも連れてこられたが、彼らの異貌が後に鬼や天狗のイメージになっていったようである。

 

 出土品なので傷みは激しいが、鏡も太刀も当時の一級品である。無傷なら正倉院蔵品と遜色ないだろう。それほど田村麻呂は手厚く葬られたのである。また京の東の玄関口である山科に墓を造営したことには、田村麻呂を都の守護神にする意図がうかがえる。神道の思想に基づく神格化である。仏教はすでに六世紀中頃に百済の聖明王によって日本にもたらされており、桓武天皇は唐から帰国した最澄や空海を庇護したが、神仏習合が進み、貴顕から庶民に至るまで仏教に帰依し始めたのは平安中期頃からである。

 

 過去の遺物が国宝指定される理由は様々である。ただ古代から室町初期にかけての重文・国宝は、近世桃山時代以降のそれとは質が違う。室町初期頃までの美術品は、国家事業として作られた物が多いのだ。朝廷(天皇)や将軍家などの貴顕周辺で作られ所有された物が残されるべくして残った。中世初期までは神道・仏教系の遺物が多いわけだが、それらを見ていると、その後の日本文化がどのように形成されたのかがはっきりわかる。もちろん作ったのは名工たちだが、個人の突出した才能が物を生んだというよりも、時代の意識・無意識が物の形に集約されている。

 

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広目天立像(四天王のうち、金堂所在) 飛鳥時代 七世紀 奈良・法隆寺蔵

木造 彩色 像高 一三三・三センチ 邪鬼高 三七・六センチ

 

 聖徳太子を祀る法隆寺金堂には、須弥壇に本尊釈迦如来像が安置され、それを取り囲むように四方に四天王像が置かれている。広目天立像はその中の一つである。この時代の仏像は中国・随様式を踏まえた端正な造形である。また四天王は仏法を犯す鬼(邪鬼)を足下に踏んでいるが、邪鬼は粛々と四天王に戒められ、自ら進んで背中を差し出しているような格好である。このような動きの少ないキリッとした仏像の造形は、平安中期から鎌倉時代にかけて、じょじょにダイナミックなものに変わってゆく。

 

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地獄草紙 平安時代 十二世紀 東京国立博物館蔵

紙本着色 縦 二六・一センチ 全長 二四二センチ

 

 腐食しやすい紙や布製品は、平安時代になってようやく増えてくる。地獄草紙は平安中期から盛んに描かれるようになった地獄絵図である。仏教は輪廻転生を唱えるが、転生には六つの段階(状態)がある。六道と呼ばれるが、天道が浄土になぞらえられる至福の世界である。その反対の最下層が地獄道である。地獄道は八つの階層(八大地獄)に分かれ、さらに十六の地獄(十六別所)に分かれる。この地獄草紙に描かれているのは、八大地獄の第四叫喚地獄である。飲酒にまつわる罪で地獄に堕ちた人が、責め苛まれる様子が描かれている。

 

 飛鳥・奈良時代の仏教遺物は静謐な悟りの境地を表現したものが多いが、平安時代になると、当時の現実世界の苦しみを反映した地獄絵図が増えてくる。先の四天王像が踏んでいる邪鬼はおとなしい姿だが、平安・鎌倉時代の邪鬼は像の下で身悶えし、暴れ出す造形に変わってゆく。それは当時の人々にとって、極楽往生の希求と同じくらい死後に地獄に堕ちるかもしれないという恐怖が増大したことを示している。

 

 地獄絵図には、誰も見たことのない地獄の諸相がありありと詳細に描かれている。人間の想像界にしか存在しない異形の者たちが、絵や文字の中にその具体的な姿を現して来くるのである。極めて鋭利な現実批評眼を持っていた清少納言でさえ、地獄絵図を見せられて逃げ出したと『枕草子』に書いている。

 

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虚空蔵菩薩像 平安時代 十二世紀 東京国立博物館蔵

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同 細部

絹本着色 縦 一三二センチ 横 八四・四センチ

 

 虚空のように無限の知恵と福徳を備え、それを人々に授けるとされる虚空蔵菩薩像である。日本で現存最古の虚空蔵菩薩像でもある。仏画でも陶器や金工品でも同じだが、新たな様式が生まれ、その造形が高度に洗練される最盛期までの遺物は別格である。物に時代固有の精神が的確に表現されるまで、絵師や仏師らは試行錯誤を繰り返してゆくからである。虚空蔵菩薩像はそのような時代精神が反映された傑作である。グロテスクなまでに具体的な地獄絵図の対局に、虚空蔵菩薩像のような清浄で高貴な仏の世界があった。

 

 絹の上に書かれた仏画なので、千年近く経った今では絹が黒ずんでいるが、仏像の肌を見ればわかるように、制作当初からその白さが際立つように作られている。当時の寺院の中は暗い。サイズを確認していただければわかるが、虚空蔵菩薩像は巨大な仏画である。寺の中でこの像を見た者は、文字通り虚空蔵菩薩が中空に浮かんでいるように見えたことだろう。こういった突出した精神性を感じさせる物は、ある時期にしか作られない。時代が経つと、最盛期の作品を模倣しながら徐々にその精神が緩んでゆく。

 

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禅機図断簡のうち 寒山拾得図 因陀羅筆 楚石梵琦賛 中国・元時代 十四世紀 東京国立博物館蔵

紙本墨画 一幅 縦 三五センチ 横 四九・五センチ

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禅機図断簡のうち 智常禅師図 因陀羅筆 楚石梵琦賛 中国・元時代 十四世紀 静嘉堂文庫蔵

紙本墨画 一幅 縦 三五・三センチ 横 四八・三センチ

 

 因陀羅(いんだら)は元時代に活躍した中国の画僧だが、その事蹟の詳細はわからない。賛は元時代末から明時代初めの中国の禅僧・楚石梵琦(そせきぼんき)である。日本には室町時代にもたらされたようだ。足利義政のいわゆる東山御物にも、因陀羅筆、楚石梵琦賛の作品がある。これは中国からの将来品だが、このような水墨画が禅林を通して大量に日本に流入したことから、雪舟を始めとする水墨画の全盛期が出現した。

 

 室町に入ると重文・国宝指定される仏画はぐんと少なくなる。水墨画の優品が重文・国宝指定を受けることが多くなるのだ。それは濃厚な想像空間の中で育まれた仏教(密教)的な浄土や地獄のイメージが失われ、無の認識を中心にした禅宗が日本人の精神を占めるようになったことを示している。絵画から色がなくなるのは異常な現象である。世界中を見渡しても、中国・朝鮮・日本で禅宗が隆盛した時代にしか見られない。そのような時代精神を表す物が重文・国宝指定を受けている。重文・国宝には日本文化の骨組みを作った物が選ばれているわけである。

 

 近世桃山・江戸時代に入ると、今度は所有者や制作者がわかっている物が重文・国宝に指定されるようになる。千利休所持の名物茶道具などがそうである。焼物で初めて国宝指定された野々村仁清の色絵藤花茶壺なども思い浮かぶ。欧米とは比べものにならないが、この頃から日本でも作家の自我意識(表現欲求)が社会に受け入れられるようになった。日本の焼き物の歴史は長いが、初めて焼物作家として社会的認知を受けたのは野々村仁清である。近世以降は様々なジャンルで、様々な形で人間精神が花開いてゆくようになる。

 

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紅牙撥鏤撥 表裏 北鞍二八 奈良時代 八世紀 正倉院御物

紙本墨画 一幅 縦 三五・三センチ 横 四八・三センチ

 

 本来なら真っ先に一括国宝指定されるべきだが、宮内庁所管――つまり天皇陛下所有品であるため、重文・国宝指定の対象外にあるのが正倉院御物である。天平勝宝八年(七五六年)の聖武天皇七回忌に、光明皇后が聖武天皇遺愛品を東大寺廬舎那仏に奉献したのが正倉院の始まりである。現在も聖武天皇遺愛品約六百五十点、薬種約六十種が正倉院北倉、中倉、南倉に所蔵されている。東大寺の仏具や文書を含めると、その数は約九千件になるようだ。

 

 紅牙撥鏤撥(こうげばちるのばち)は琵琶を弾くための象牙製の撥である。撥鏤(ばちる)は象牙の加工手法で、象牙表面を赤などに染め、その上から線刻を施して加飾する。正倉院にはこの他にも物差しとして作られた撥鏤尺(ばちるのしゃく)などが残されている。元は一尺だったが今では折れてしまっているものもある。

 

 この撥鏤尺(ばちるのしゃく)を含む正倉院御物は、明治時代の初めにかなり大量に外部に流出した。ただ宮内庁は、日本臣民が天皇御物に手を出すことなどあり得ず、正倉院から御物が流出したことはない、という公式見解のようだ。しかし現実には明治初期に流出した正倉院御物が美術館に収蔵されることもある。その場合はいつの時代にか東大寺から流出した物だという説明になることが多い。光明皇后は東大寺にも聖武天皇遺愛品を奉献しているからである。

 

 こういった話は小説的で面白いのだが、美術展時評の範疇を超えてしまうので、また別の機会に書きます。ちょっとだけ補足しておくと、明治初期の正倉院御物流失の経緯はあらかたわかっているのだが、誰がそれを為したのかの証拠は一切ない。人の名誉に関わる微妙な問題でもある。ただもう遠い昔の話しで、また買える値段ではないが、宝物中の宝物のいくつかが民間で秘蔵されているのはワクワクすることではある。もしかすると実物を手に取ることくらいはできるかもしれない。そんなことで犯人捜しにはまったく興味がないが、流出の機微がわかる資料が発見されれば、それはそれで重要な発見になるだろう。

 

 その伝来の確かさと残されている文物の量から言っても、日本の古美術の最高峰は正倉院御物である。それが重文・国宝の指定を受けることなく、いわば空虚な中心となっているのは、実に日本らしい現象だと言えるかもしれない。

山本俊則

 

 

 

 

京都で日本美術をみる 京都国立博物館 NHK 趣味どきっ!(火曜) 国宝に会いに行く 橋本麻里と旅する日本美術ガイド 2015年 4月~5月 [雑誌] NHKテキスト

 

 

 

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