ちかえもん

NHK総合

木曜日 20:00PM

No.108_TVドラマ批評_01

 

 

 うーん、という感じである。面白くないとか、必ずしもそういうことではない。ただ、私たちが時代物に期待するものを期待してはいけないのだ、ということはわかる。ではさて、私たちが時代物に期待するものとは何だろう。それは単に時代設定を過去にしたというものではなさそうだ。

 

 時代設定だけの話なら、それを未来に運んだ SF と変わらない。SF も時代物もその時間軸でもって “現代” を批判しているのだから、その意味では確かに同じだ。しかし SF は起きてない、また起きようもない出来事を介して現代のある側面を捉えようとするので、フィクションはそれ自体を目的としない、一種の装置である。

 

 フィクションが装置であるのは一般的にそうだと言えるだろうが、そのことを隠そうとしないのが SF の特徴だ。ただ物語の進行中は、それがそこに現前するものとして受けとめられる。画像であれば、その部分に説得力を持たせるのは比較的容易ではある。かかる労力とコストが説得力に変換されるのだ。SF ならぬ時代劇であれば、史実の衣を纏ったぶん、なおのことそれは強力だ。

 

 そうであるなら、その裏をかくようなことをしたくなるものかもしれない。今の大河ドラマもそうで、大真面目に過去を演じている素振りなど、もはやしようとしない。現代の我々が何らかのコードにより、こういう過去めいた設定や衣装で何かしている、という意識を持っていることを繰り返しアピールする。その意識もなく過去の英雄になり切るなんて、ほんとバカみたいだ。

 

 ただ、自分たちは現代においてそれをさせられるというコードを意識している、というそのことは、テーマにはなり得ない。ポスト・モダンは手法であって、テーマではないのだ。テーマというのは作り手にとっての核であるとすると、受け手にとってはそこから受け取るメッセージということになる。もちろんメッセージは、社会的に大義名分たり得るものとはかぎらない。

 

 むしろ、そうでないものでなければ、社会の根底を揺さぶろうとするポスト・モダンとは折り合わない。そうすると、社会的なきれいごとだけがメッセージだと思い込んでいる向きには、メッセージなどないように映るだろう。しかし、それはそこにある。なければ誰の記憶にも残らない。

 

 かつてのクドカンの民放ドラマ『タイガー&ドラゴン』は、落語家に弟子入りする若いヤクザの話で、現代に落語のプロットである時代物が挿入されているという意味では、この『ちかえもん』とは逆の構造だ。その『タイガー&ドラゴン』にしても、同じクドカンの朝の連ドラ『あまちゃん』にしても、テーマはいわば「純」ということに尽きる。それが若い俳優の魅力そのものと化していた。

 

 『ちかえもん』は正史の英雄の時代劇ではなくて、江戸期のシナリオライターの話だ。テレビドラマでそれをやることのポスト・モダン性を意識するなら、現代のシナリオライターの切実が伝わらなくてはならないだろう。時代物の文脈を外すなり踏みにじるなりを許すのは、知的な批評意識ばかりでない、切実なテーマである。

田山了一

 

 

 

 

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