月刊俳句界_No.028_01

 

 

 今月号には「特集 一目でわかる!芭蕉一門とその後」が組まれている。前回句誌には散文が多い、あるいは句誌では作者や作品を紹介し、顕彰する散文が目立つという意味のことを書いた。もしかするとそれもまた俳句の伝統で、俳聖・松尾芭蕉がその始まりかもしれない。もちろん現在の雑誌ジャーナリズムとは質は違うが、紀行文という形で俳句と散文を混淆させる形式を作ったのは芭蕉である。また芭蕉以降、紀行文の傑作は現れず、散文は俳文や俳論の形で書かれ、現在のような様式になっている。

 

 ちょっと話しが脇道に逸れるが、芭蕉や蕪村の全集を通読しておられる俳人は、どのくらいいるのだろうか。いわゆるプロの俳人を自称するなら、当然、読んでおられるのだろうと思いたい。やってみればわかるがそんなに大変な読書ではない。仕事の合間を縫ってでも、集中すれば二ヶ月くらいで読了できるはずである。もちろん全部頭の中に入るということはないが、通読しておけば、どこに何が書かれていたかという勘が働くようになる。また俳句文学の場合、プロを目指すなら芭蕉と蕪村全集の読破は必須だろう。

 

 芭蕉が俳句を文学として確立したことは疑いないが、散文を伴わない発句(独立俳句)をほぼ完璧な形にまで昇華したのは蕪村である。この二人が現在の俳句文学の基盤を作った。芭蕉、蕪村に、欲を言えば正岡子規の代表作をあらかた読めば、俳句文学の変遷のおおよそがわかるはずである。なお子規を読むときは、〝可能性としての子規〟という視点で読んだ方がいい。彼の人生は短い。子規は俳句の様々な可能性をぶちまけるようにして逝った。別に批判しているわけではないが、子規をきちんと読めば、高濱虚子の有季定型写生俳句、あるいは花鳥風月主義が、子規が持っていた俳句の可能性の一部でしかないことがわかるはずである。それが俳句の王道であるかどうかはまた別の問題である。

 

 また芭蕉蕪村に限らないが、全集を通読することは〝作家の全体性〟を把握する意味でも有益である。どんな作家でもいきなり素晴らしい作品を書き得たわけではない。試行錯誤の末にある高みに達している。また作家は原理的にほとんど一つのことしか主張(表現)していない。作家が抱えている文学のヴィジョンが、思考の深みや技術的な進歩によって徐々にその姿を現してくるのである。

 

 芭蕉、蕪村、それに子規の全集を通読したら、今度はお好きな現代俳人の全集を読んでごらんになるといい。時代が新しい分、なおさらのこと、その作家の文学のヴィジョンはもちろんのこと、思考や技術の変遷が手に取るように分かるだろう。芭蕉や蕪村、子規のような作家になれるかどうかは別として、誰もがそのような創作人生の軌跡を描くのである。人は一度しか人生を生きられないが、優れた作家の全集を通読すれば、自分とは異なる文学の軌跡を描く人生を我が物とすることができる。

 

 こうしてみると小説の一新(一六八二)、俳諧の革新(一六八四)、戯曲の近代化(一六八六)は、長い日本文学の歴史を念頭に置けば、同時に起こったと言って差し支えない。

 さらに学問の世界で言うと、契沖(けいちゅう)が『万葉集』の研究において近代的学問手法を確立したのもこの時期である。(中略)

 契沖より前の学問を旧註と言い、以後の学問を新註という。ついでに言えば、西鶴以前の小説は仮名草子であり、西鶴以降は浮世草子、芭蕉以前の俳諧は古俳諧、近松以前の浄瑠璃は古浄瑠璃である。

 芭蕉はこういう時代の流れの中にいたのであって、彼の持っている革新性は、従来の在り方に囚われない時代風潮でもあったのだ。

(「芭蕉と弟子達」大輪靖宏)

 

 大輪氏が指摘されたように芭蕉の俳諧は、江戸最初の文化隆盛期である元禄時代に生まれた。元禄頃に初めていわゆる〝太平の世〟が出現したのである。貧富の差は激しかったが江戸経済が空前の発展を遂げた時期でもあった。この時代の文化を支えた作家は、芭蕉のように江戸を拠点とした人でも関西圏出身が多かった。井原西鶴、近松門左衛門、契沖などみなそうである。絵画の世界では尾形光琳が現れるが、彼もまた京の裕福な呉服問屋の息子だった。関西圏は戦国から江戸初期にかけて華麗な桃山文化を経験していたが、その遺風を継ぐ文人や文化が社会の安定と経済の発展によって、一気に江戸に流れ込んだのである。

 

 またこの元禄文化は同時発生的だった。王朝女流文学や能楽、茶道などがある時期に一気に開花したように、小説、戯曲、俳諧、絵画などのジャンルで新たな美の様式が生まれた。ある芸術ジャンルが日本で成立するときには、それまでマグマのように底流を流れていた表現欲求がほぼ一人の優れた作家によって大成される。その形式が確立されると、以後は〝伝統〟として踏襲されるという特徴を持っている。俳句や浄瑠璃はそのような伝統芸術の一つになった。

 

 大輪氏の指摘に一つ加えると、元禄時代の大きな思想動向に儒学の興隆がある。儒教が日本にもたらされたのは古いが、いわば国家の思想として取り上げられたのは江戸に入ってからである。儒教は有本質論である。君主には君主の、臣下には臣下の本質があると考える。それが封建身分制度に支えられた幕藩体制を支える思想となった。幕府最初のお抱え儒者は林羅山だが、徂徠は林家に学び、古典を忠実に読み解く古文辞学(蘐園学派)を創始した。町人階級の文人にまで儒教が受容されるのは徂徠以降だと言って良い。よく知られているように宝井其角に「梅が香や隣は荻生惣右衛門」がある。芭蕉の散文には契沖の国文学よりも儒学の影響が色濃い。

 

 清水の西門にて三味線ひきてうたひけるを聞ばつらきは浮世あはれや我身。惜まじ命露にかはらんと其聲やさしく袖乞の女。夏ながら綿入を身に掛冬とは覺てひとへなる物を着事。はけしき四方の山風今。むかしはいかなる者ぞとたづねけるに。遊女町六条にありし時の後の葛城と名に立太夫がなりはつるならひぞかし。

(『好色一代女』より「淫婦の美形」 井原西鶴)

 

 月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也 舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老をむかふる物は日々旅にして旅を栖とす 古人も多く旅に死せるあり 予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて漂白の思ひやまず海浜にさすらへ去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひてやや年も暮春立る霞の空に白川の関こえんと・・・

(『おくの細道』 松尾芭蕉)

 

 どちらも有名な古典なので短い引用で済ますが、西鶴の文章はいわゆる伝統的な和文で王朝物語文学の系譜上にある文章である。それに対して芭蕉の文章は漢文体であり、元禄時代に初めて出現した散文だった。芭蕉以降、江戸の散文は圧倒的に漢文体が多くなる。西鶴的和文を援用したのは上田秋成や鶴屋南北など一握りしかいない。

 

 子規は芭蕉の俳句は散文の力によって魅力的に見えているのであり、虚心坦懐に句を読めば本当に優れた俳句は少ないと言った。異論はあるだろうが正しい指摘だと思う。芭蕉文学は漢文体の散文と和文的な俳句に分離していたが、いわば漢文体を骨組みにして芭蕉以降の俳句を大成したのが蕪村である。いずれにせよ、江戸俳諧は漢文を骨格にした芭蕉文学に沿って推移している。

 

 文学は社会全体の影響を激しく受ける。江戸時代を通しての学問は四書五経を中心とした漢籍研究であり、詩は漢詩を指した。いずれも〝公〟に属する表現であり、武士かそれに準ずる者が漢籍を研究し、漢詩を書いたのである。俳句は庶民の文化だと言われるが、もの凄く大局的に言えば、江戸的な漢籍・漢詩文化に属している。それは封建権力が許容した文化であり、男の文化だった。実際、江戸期を通じて俳諧はもちろん、その他のジャンルでも優れた女性の表現者はほとんど現れなかった。男たちが気まぐれに持ち上げた女流作家の作品が散発的に残っているだけである。

 

 歌人の馬場あき子氏は「自分の内面をさらけ出したくない、ええ格好しいが俳句を書く」という意味の放言をしたことがあるが、その通りだという面が確実にある。元禄の江戸っ子が芭蕉より其角を愛した理由もそのあたりにある。其角は粋の人だった。また現代では女流俳人も大勢いらっしゃるが、俳壇が大企業の出世争いに似た男たちの権力闘争の場になっているのも確かである。

 

 俳句は男の文学だなどと言うと、女流作家の皆さんは当然反発なさるだろう。しかし王朝和歌と物語文学は女流の独断場で、江戸期を通じて女流作家が出なかったのはなぜなのかを考えてみるのは有益ではないかと思う。もちろん俳句は男たちのためだけのものではない。ただ俳句文学で女流作家が一頭地を抜くためには、俳句文学の強さ、弱さを徹底して考えてみる必要があると思う。

岡野隆

 

 

 

 

 

奥の細道 俳諧紀行文集 蕪村句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)