月刊俳句界_No.027_01

 

 

 「月刊俳句界」に限らないが、他の俳句商業誌を読んでも結社・同人誌を読んでいても、句誌は散文が多いなと思う。昭和三十、四十年代頃は雑誌の数も少なく活版印刷費用も高かったから、特に結社誌などには細かい活字でギュウギュウに俳句作品が詰め込まれていた。それでも俳句愛好者たちは目を皿のようにして句を読んだのである。結社誌の投句欄が俳壇への登竜門だった頃の話しである。もちろん散文も掲載されていたが、選りすぐった著者の人選が行われていたという印象が強い。句誌に散文を掲載できるのは、俳人としてはもちろん、批評家としても優れた一握りの書き手だという暗黙の了解があったように思う。

 

 印刷が容易になるにつれて、雑誌の数はウナギ登りに増えていったわけだが、いつの頃からか掲載される散文の量が増えていった。雑誌刊行が容易になったのだから、もっと作品が掲載されてもいいようにも思うのだが、これは戦後ジャーナリズムの影響でもあるだろう。ジャーナリズムは基本的に〝状況誌〟である。今どのような思想が流行っており、誰が代表的作家(スター)であるのかといった最新情報アピールすることによって、読者獲得を目論むのである。それはかつての俳句界に限らず、小説界や短歌界、自由詩の世界にもあったジャーナリズムの方法である。しかしもうだいぶ前から、少なくとも二〇〇〇年頃からは明確に文学の世界に状況は存在しないと思う。

 

 もちろん小説界でも昔のような思想流行など存在しない。そのため小説文芸誌はだいぶ前から作品中心の構成にシフトしている。小説ジャーナリズム全盛の頃と比べれば、掲載される文芸批評の量はものすごく減っている。小説文芸誌は作家たち共通の認識パラダイムなどもはや存在しないという前提に立って、作品によって活路を切り開こうとしているのである。又吉直樹氏の『火花』が典型的だが、小説本が売れなくなっているとはいえ、小説界は大きな潜在読者層を抱えている。元々文芸批評の市場(売り上げ)は小さい。小説業界全体の売り上げが下がって文芸批評市場が消えかかっている状況で、まだ売れる可能性のある作品掲載を主流にしているのだ。

 

 しかし商業俳句誌も同人誌・結社誌も、いまだ一昔前の状況主義的ジャーナリズムを踏襲している。図式的に言えば昭和三、四十年頃の俳句界は、自分の作品を活字にしてみたい、有名雑誌に作品掲載したいという俳人たちの熱気で支えられていた。今は作品を書くのが半分、散文を書くのが半分という俳人が増えているのではなかろうか。とは言っても芭蕉や蕪村について徹底的に考え、俳句の原理について考え抜くような本格的評論はほぼみかけない。ではどう見ても共通パラダイムがない現在において、俳人たちはどういった質の状況論(散文)を書いているのだろう。

 

 前衛俳句が素晴らしいと言うつもりはこれっぽっちもないが、今の俳句界には前衛俳句に〝代表されるような〟刺激材料がない。どの商業誌も有季定型俳人の作品と散文で埋め尽くされている。とにかく一句でも俳句を掲載することに血道を上げていた一昔前の句誌の方が、作品としてはバラエティに富んでいた。いわゆる伝統派の句誌であっても、たくさん俳句が掲載されていたわけだから、少しばかり毛色の違った作品が掲載されていた方が雑誌として面白かったのである。また読者はちゃんとそういった俳句を読み分けていた。

 

 今では五七五で季語があり、「けり」「かな」「や」の切れ字を中心に据えて、過度な意志表現や空想表現は控えるといった俳句がズラリと並んでいる。しかし結社ごとの秘伝のようにしてある〝俳風〟は、主宰俳人や結社有力俳人がいくら力説してもそれほど大きな作風の違いになって表れるものではない。そのため作品は個性のない似通ったものになりがちだ。ストレートに言えば、状況のない時代の状況論(散文)は、この個性の薄い作品群を際立たせるために書かれているように思われる。

 

 短歌雑誌を開けばわかることだが、歌誌はそれほど散文が多くない。また歌誌を読んでいても、俳句雑誌のように散文が中心だという印象はほとんどない。あくまで作品中心である。その理由は短歌作品の自己主張が強いからだろう。短歌は俳句より七七、十四文字長いだけだが、ここに歌人の心理や思想、生活実感が如実に表れる。短歌でも俳句でも、あるテーマに沿って作品を連作するのが普通だが、短歌の場合、歌人が今どのような生活をしていて、どういう状況で歌を作っているのかが、あらかたわかるのである。そのため散文で過度に作品について説明する必要がない。

 

 しかし俳句は基本的に写生である。どこかに行った、誰かと会った、何かを食べたといっても、それはたいていの場合、現実事物の描写に留まる。作家の心象が表現されていても、嬉しい、哀しい、寂しい、美しいといった抽象感情がほとんどであり、なおかつ有季定型俳句ではそれらの抽象感情すらあまり表現しないよう指導されている。雑誌に掲載されている作者の名前を取り除いてしまえば、誰の作品なのかわからなくなってしまうことが多いのである。「それが俳句愛なんだよ」と言われてしまえばそれまでだが、現実の俳壇を見ている限り、そんなきれい事の愛など誰が信じる。

 

 要は今の句誌を埋め尽くしている状況論的散文は、わたしの、彼の、彼女の俳句のプレゼンテーションである。他者と紛れてしまいそうな作品を、この方はこんな履歴を持っていて、こんな素晴らしい精神の持ち主で、作品ではこの箇所の表現が素晴らしいのだと、ひたすら褒めちぎっている文章が多い。ツイッターの世界では互いの傷に触れないような誉め合いが行われているが、句誌も似たようなものだ。基本、他者の作品への批判・批評は御法度で、自分自身、あるいは自分と親しい知り合いの作品を持ち上げ続るのである。つまり現在の俳壇の状況を作っているのは肥大化したエゴイズムプレゼンテーションである。みんな仲良しに見えて、他者の作品には興味のない、孤立したエゴの集団として安定しているということだろう。

 

長谷川櫂 『花醍醐』連作より

奈落より花舞ひ上がる吉野建

去年よりいよいよ高みへ花の宿

咲きみちて花の屏風や吉野建

湯気白き山の湯に花籠るらし

咲きみちてあたりまばゆき朧かな

天空に月は古びて朧かな

女喰らふ鬼はやさしき桜かな

へうたんの中は荒海花の酒

姿なき吉野の鬼や花吹雪

常世より曳きずりきたり桜鯛

花びらにまぎれて上る小鮎かな

曼荼羅の春光の矢の億万本

はくれんの花朽ちながら花ざかり

白もまたうすれてあはれ桜かな

花の心ここはあらず散りいそぐ

ひとひらの花びら遊ぶ虚空かな

 

 今や正岡子規や高濱虚子を凌ぎ、芭蕉や蕪村に肉薄する勢いの現代の俳句大家、長谷川櫂氏の連作五十句から十六句を抄出した。何かを足す必要も引く必要もない見事な作品である。文学者は迷いながら新たな試みに乗り出すものだといった考えは、もはや古いのだろう。現代ではまず自己の俳風と作品に自信を持たなければならない。そこに根拠があるかどうかは問題ではない。むしろいつの時代でも根拠のない絶対的自信が一番強力である。

岡野隆

 

 

 

 

 

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