オトナ女子

フジテレビ

木曜日 22:00

No.104_TVドラマ批評_01

 

 

 不振にあえぐフジテレビのドラマでも、代表格のように名指された記憶も新しい。それというのも数字の低調をトップが認め、主演の「篠原涼子が美しすぎて、アラフォー女性のイタさが伝わらない」などと発言したことが話題となったからだ。この発言は必ずしも間違ってないが、そのこと以上に重要な問題点を浮き彫りにしたと言えるかもしれない。

 

 その言葉自体は、主演女優を持ち上げつつかばうという配慮もあろうけれど、結果的には主演女優のせいにしてしまっている。美しすぎるとは、裏を返せば演技力がないと言っているのに近いが、そもそも演技力を発揮しようにも、そういうホンじゃない、ということがまずあろう。美しさが吹き飛ぶような迫力のある芝居をしたいと切実に思っているのは、俳優の方ではないのか。

 

 仮にもテレビ局のトップが、そういうことがわからないはずもあるまい。それでも脚本でなく俳優のせいにするしかないのは、結局は俳優業というものが外注の一種だからではないか、と思う。スターをちやほやできるうちは余裕があり、恵まれた時代だったのだ、と今になってわかる。

 

 スターを大事にするのは、その威力を借りての伸びしろが期待できる成長期だろう。それを獲得した者が次代を担うという組織の掟が生きていた。状況が悪くなると、組織は組織を守ることを最優先するしかない。テレビ局の存在理由は、傍目にはスターに見えるかもしれないが、そうではないのだ。

 

 あらゆる組織の存在理由は、つまるところ組織そのものである。そこに生涯の中央部分を捧げた仲間たちの生活保証が最も重要なのは、当然といえば当然だ。そんなことは責められないし、そうではない立場を選んだ以上、覚悟を決めるのがオトナというものである。

 

 脚本家もまた外注ではあるけれど、企画と一体でもある。企画がそもそも組織本体のものであるから、俳優に比べれば中枢に近い。脚本家だって存分に筆をふるえるかどうかは企画にかかっているし、キャスティングを決めてのアテ書きとなれば、俳優に役を発注する側でもある。

 

 ドラマ「オトナ女子」の不振は、そのアラフォー女子が少しもオトナではないからである。そんなことは係わった誰もがわかっていると思う。篠原涼子演じる女主人公は、せいぜい大学四年生ぐらいのシニア女子大生にみえる。それもかつて大昔に安田成美が演じた、中年男と恋に落ちる女子大生に比べても子供っぽい。もしかしてそれは脚本のせいですらないのかもしれない。

 

 アラフォーだから、自分と同じく子供じみた年配の男とも若い男とも付き合えるし、仕事に生きる素振りをすることもできる。それが自在さでなくご都合主義に映るのは、そういう時代だからだろう。便利で美しいアラフォーにリアリティがないのではない。そのリアルを解釈し切れるオトナがいても、それにリードをとらせる組織の余力がない、という状況なのだと考える。

山際恭子

 

 

 

 

 

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